赤の広場と二葉亭四迷
本日は二葉亭四迷の忌日。東京書籍から国語の副教材として刊行されている「新総合 図説国語」がある。手元にあるのは改訂7版(2000年)発行である。カラー写真が豊富で作家の写真の背景にはゆかりの名所が所載している。津和野の町並み(森鷗外)、東大三四郎池(夏目漱石)、双柿舎(坪内逍遥)、熱海の海岸(尾崎紅葉)という具合である。二葉亭四迷は赤の広場。ピョートル1世以降、ロシア帝国の首都はサンクトペテルブルグであり、ソ連の首都がモスクワに定められたのは1917年からである。ところが二葉亭四迷が朝日新聞特派員としてサンクトペテルブルグに赴いたのが1908年のことで、翌年肺炎を患い、帰国途中、ベンガル湾航行中の船室で病死している。5月10日にシンガポール郊外で火葬された。四迷がロシア滞在中、モスクワに訪れたかもしれないが、主な活動拠点はサンクトペテルブルグである。下宿先は「罪と罰」にもでてくるストリャールヌイ通りにある安宿である。13番館の2階40号室で今も残っている。中村光夫や十川信介などが訪れているが、このような粗末な部屋で日本の文豪が暮らしていたのかと思うと、感慨ひとしおであるという。それにしても赤の広場と四迷の配合はミスマッチである。「赤の広場」は昔「キタイ・ゴドロ」Kitai‐gorod(中国街の意)と呼ばれ、露天市場が開かれていた。「赤」といえば共産主義の別名ともとられるが、ロシア語のクラーイスは「赤い」のほかに、「美しい」という意味がある。この広場の呼び名は、帝政時代の1782年にすでにあった。(参考:十川信介「ペテルブルグの二葉亭」図書2001.11)
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