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2016年5月19日 (木)

吉沢独陽

  芦屋裏山

識らず知らずに 来は来てみたが

さるとりいばらの 赤い実が

ぽつりぽつりと あるばかり

遠い昔の おもいでに

雑木林の細道の 空の深さよせつなさよ

Img_0008     吉沢独陽(1903-1968)。本名は吉沢舛男。信州伊那市の生まれ。大正5年に上京。神田神保町の古本屋で丁稚奉公のかたわら、明治薬学専門学校に学び、薬剤師の免許をとり、ラジウム製薬会社(錠剤工場)を創設。大成中学校の講師を兼任。関東大震災の後、芦屋に移る。芦屋市西山町18に聖樹薬局(聖樹薬詩園)を経営。戦前、日本詩壇を創刊。さらに戦後は、「聖樹」を坂本勝と共に刊行(日本詩人クラブ、日本文芸協会に所属)芦屋在住40年余りの間、登山にうちこみ日本アルプスに70余回、芦屋の裏山は我が庭も同然だった。昭和43年死去。昭和5年5月19日に生田春月は瀬戸内海に投身自殺する2日前に吉沢独陽を訪ねている。折り悪く吉沢が留守だったので、春月は自分の写真を一枚置いていった。著書に「地に潜る虫」(昭和3年刊、序・白鳥省吾、富田砕花)がある。

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コメント

初めてコメントします。

色々なことをよくごぞんじのようですが、吉沢独陽について何か知っておられることがあれば、またブログに載せていただきたいな…と思いまして…

お便りありがとうございます。吉沢独陽は地元では薬局屋の御主人として知られているが、実は関西では有名な詩人だったんですね。「日本詩壇」(昭和8年創刊)の編集委員として活躍していた。死後、蔵書の中から全国の同人誌千点が大切に保管されていたそうです。これからも注意して調べてみます。

1953年(s28年)東京にてお会い いたしました。私の大学時代の下宿先だった 渋谷の薬局の家で 日本酒を飲んでおり 「つまみは 何もいらん 信州高遠の 味噌で十分」と言っておられました。薬局のご主人も奥さんも伊那 高遠の方です。

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