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2016年5月18日 (水)

古戦場跡は桶狭間ではなく田楽狭間

Tz_22_25    本日は桶狭間の戦いがあった日。永禄3年(1560)5月、天下に野望を抱く今川義元は、斎藤道三の亡きあと衰えた美濃を踏み破り、諸城を落として一気に上洛せんものと25000の大軍を率いて西上の途にのぼった。5月18日、織田領の丸根・鷲津両城にも今川の脅威が迫ったとの報に接した信長は清洲城で軍議を開いた。織田の兵力はわずか3000にすぎず、籠城説が大勢を占めた。しかしその夜信長はにわかに出陣を触れ、真っ先に馬を駆けさせた。信長のあとを追ってきた兵は熱田神宮まできたとき1000人となり、善照寺についたときは3000人にふえていた。今川の25000人に比すれば問題にならない劣勢である。しかし危機に立たされた信長としては、死中に活を求めるしかなかった。翌19日。今川義元はこのとき、桶狭間の北、田楽狭間(愛知県豊明市栄町)に駐屯して、勝ち戦の祝杯をあげていた。兵士にも酒を配り、警備は全くおろそかにしていた。折から空には黒雲がたれこめ、豪雨がふり注ぎ、あたりは全く見通しがきかなくなった。その機をのがさず信長は横合いから義元の旗本めがけて襲いかかった。義元の軍はたちまち混乱し、軍を立て直す暇もなく、ついに義元が毛利新助によって討ち取られたのである。大将を討たれた今川軍はたちまち敗走した。この時徳川家康は義元軍に従軍していたが、この合戦ののち自立し、信長に属している。この戦いには迅速果断な信長の面目がよくあらわれている。信長の武名は一躍とどろき、今川義元に代わって上洛を志すに至った。

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