津田三蔵のトラウマ
明治24年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ(1868-1918)が滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵(1854-1891)に襲撃され負傷した。いわゆる大津事件(湖南事件ともいう)から110年あまりが経つ。どうしてこのような大事件が発生したのか、津田の動機が実際のところあまりわからなかった。ところが、近年、津田三蔵の自筆書簡53通が三重県上野市の個人宅から発見された。
津田三蔵は安政元年12月29日、上野の津藩士の子として生れた。西南戦争に従軍し負傷したが、少なからぬ功績があったようで勲七等を授与されている。当時22歳の青年だった津田にとって西南戦争の記憶は14年たっても生々しい記憶として残っていた。ロシア皇太子の警護は厳重を極めた。津田は同僚と街道からわずか入った御幸山にある西南戦争記念碑付近の警備を担当していた。この慰霊碑は大津の第九連隊戦死者441名の霊を慰めるために建立されていた。ニコライ皇太子は、観音堂を訪れた際、この記念碑にまで足を伸ばした。そのとき、突然、津田はサーベルを抜いてニコライに斬りかかり、右側頭部を負傷させた。
津田の動機としては、大きく次の4点が考えられる。
①ロシアの強行姿勢に不満があった
②死んだ西郷隆盛がニコライと一緒に帰国し、西南戦争で受勲した者から勲章を剥奪されるのを怖れた
③ロシアの随行員が西南戦争記念碑に敬礼せずに通過した非礼に対する制裁
④皇太子の歓迎の花火の音から西南戦争の大砲の音を想起した
津田三蔵の精神状態の解明は困難ではあるが、津田にとって西南戦争という悲惨な出来事がトラウマとなっていたことは事実のようである。
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