神尾春央(かんお はるひで)の年貢増徴策
八代将軍徳川吉宗の時代、老中松平乗邑のもとで、神尾春央(1687-1753)は勘定奉行に就任。年貢増徴を推進し、延享元年(1744)には、自ら中国地方へと赴き、徹底した年貢率強化と隠田の摘発を実施し、民衆の反感をかった。翌2年に吉宗が引退した後、乗邑が失脚したのに続き、それまでの春央の専管であった金銀銅山懸り、長崎懸り、検地奉行などが勝手方の共同扱となった。「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る物也」という春央の言葉は彼の増徴政策を端的に表している。参考:谷山正道「延享元年勘定奉行神尾春央の西国幕領巡見をめぐって 年貢増徴をめぐる東と西」 内海文化研究所18 19、1990年。
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