柳田国男と牧口常三郎
柳田国男(1875-1969)と牧口常三郎(1871-1944)は、明治42年5月2日、英文学者の馬場孤蝶の紹介で知り合う。その後新渡戸稲造主催の郷土会で二人の交流が始まる。牧口と柳田は農村調査のため明治44年5月12日から15日にかけて旅行をしている。のち柳田は、創価教育学説支援会の発起人の一人にもなっている。しかしそのような二人もやがて疎遠になる。柳田は仏教きらいであるらしく、牧口の温厚な人柄に好意を抱くものの宗教に対する根本的な考え方の相違が理由の一つに考えられる。とくに昭和になると、牧口が戦争反対や平和論を唱えることに柳田は否定的であり、「反抗が最も悲しむべき不幸を伴なうたのも、むしろ結果であった」と冷たく書いている。本書によれば二人は喧嘩別れをしたとある。昭和26年、柳田は文化勲章を受章し、「後狩詞記」「石神問答」「遠野物語」「山島民譚集」などの著書でその栄誉はゆるぎないものではあるが、一方の牧口常三郎の遺志は戸田城聖、池田大作と受け継がれ現在の精華を思うと、二人の偉人の遭遇と阻隔には、大きく考えさせられる問題がある。(参考:村尾行一「柳田国男と牧口常三郎」)
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