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2016年5月22日 (日)

水戸黄門の「黄門」とは何か?

   徳川光圀は黄門様として庶民に親しまれている。どうして「黄門」という名前がついたのか。当時は、老中や若年寄などの幕府の官職のほかに、京都の天皇からもらう官職があった。光圀が天皇からもらったのは、中納言という官職で、この別称が「黄門」である。広辞苑の説明によれば、「唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう。中納言の唐名。」とある。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出ることはなかった。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂事業に専念していた。

    大岡忠相は町奉行として知られるが、いまでいえば、都知事と警視総監、さらに裁判長を兼ねたような高官で、実際に直接携わった裁判は1件しかなかった。小石川養生所の医師、榊原伊織は架空の人物である。

    「この桜吹雪が目に入らぬか」の決め台詞の刺青判官、遠山金四郎。金さんは実在していた人物で、1793年に生まれ、62歳の生涯を送り、1855年に没している。義賊、鼠小僧次郎吉も実在していたらしく、1797年に生まれ、初め鳶人足であったが、博打に身をもちくずし、大名屋敷専門の盗賊となった。1832年、小塚原の刑場で磔・獄門となった。

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