烙印の女 佐々城信子
従軍記「愛弟通信」を国民新聞に連載して好評を得た国木田独歩(1871-1908)は、明治28年6月9日、キリスト教婦人矯風会書記長・佐々城豊寿(1853-1901)の従軍記者招待晩餐会に出席し、そこで長女の佐々城信子(画像)を初めて知った。
佐々城豊寿は嘉永6年、伊達藩士・漢学者・星雄記の3女として生まれた。幼いころから才気煥発で、のち婦人解放運動の先駆者となる。明治11年に陸軍軍医・伊東本支と知り合い、彼との間にノブをもうけた。この私生児が、のちに独歩に「欺かざるの記」を生み出し、有島武郎に「或る女」のヒロイン早月葉子のイメージとなった、佐々城信子である。
独歩と信子は愛し合うようになる。しかし、自由恋愛者であるはずの母・豊寿は独歩のことを「どこの馬の骨ともわからぬ男」と蔑視し、結婚に反対する。周囲の反対を押し切り結婚した二人に破局が訪れる。明治29年3月28日、父の病気のために麹町区隼町に同居していた独歩は、矯風会のメンバーである潮田千勢子(1845-1903)宅で豊寿と和解の面会をした。ついに4月24日、独歩と信子は離婚した。この破婚によって豊寿は娘の情操教育を誤ったものと世間から糾弾を受け、雪深い北海道へ隠棲した。
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