斎藤実内閣と帝人事件
第30代内閣総理大臣・斎藤実(1858-1936)は五・一五事件のあとをうけて昭和7年5月26日、組閣した。満州国承認、国際連盟脱退、農村救済事業などによって非常時の鎮静化をはかったが、昭和9年7月3日、帝人事件によって辞職した。斎藤は軍人出身だが、穏健的色彩の政治家で、軍部急進派から親英米派重臣と目され、二・二六事件で暗殺される。
株売買が問われた疑獄事件、帝人事件とは何か。台湾銀行は昭和恐慌で倒産した鈴木商店から担保流れとして帝国人絹株式会社の株式過半数を所有していたが、この株の値上がりを見越した鈴木商店の大番頭金子直吉らはこの株の買受けをはかり、時の斎藤内閣のバックたる番町会(財界の中心人物郷誠之助を囲む若手財界人の会)の人々に斡旋を依頼した。しかし買受価格の問題をめぐって仲間割れがおこり、これに失敗した人々が買受けのうちに贈収賄の事実ありと攻撃した。昭和9年4月18日、帝人社長の高木復亨が、帝人株売買の背任・贈賄の容疑で逮捕された。高木の自供から、株を買い取った番町会の長崎英造、河合良成、小林中、永野護らも、背任・贈賄の容疑で逮捕された。さらに5月に入ると、大蔵次官黒田英雄、同省銀行局長大久保偵次らが、株売買を仲介した際の収賄の容疑で逮捕された。これより先、中島久万吉商相、鳩山一郎文相ら閣僚が辞職しており、斎藤内閣は、大蔵省高官の逮捕により、7月3日、総辞職した。しかしこの後も、中島久万吉前商相が収賄の容疑で、三土忠造前鉄道相が偽証の容疑で逮捕されて、帝人株売買による逮捕者は17人に達した。被告は予審では自白し、公判では取調検事の拷問による人権蹂躙があったと容疑を一斉に否認した。公判は4年余、265日にわたったが、昭和12年東京地裁は、正当な株売買として全員に無罪判決を下した。帝人事件は司法部内の平沼騏一郎を中心とする右翼の倒閣のための陰謀といわれている。
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