イギリスの対独宥和政策の失敗
「詳説世界史研究」木下康彦・木村靖ニ・吉田寅編、山川出版社(初版1995年で第8刷の2000年版)の「ナチスの侵略」の項(474p)イギリスの「宥和政策(アピーズメント=ポリシー)」の註釈として次のような記述がある。
当時のイギリスの世論は平和主義が強く、「ミュンヘンの妥協」が成り立ったとき、イギリスの下院では空前の歓声がおこった。チェンバレンの帰国は「平和の使徒が帰る」ごとくであったという。翌年のノーベル平和賞がチェンバレンに与えられたことなど、今日からみれば皮肉な現象であった。
第二次世界大戦前のイギリスの有力政治家は、宥和主義者のチェンバレン首相、ハリファックス外相、反宥和主義者は、チャーチル元蔵相、イーデン前外相、元首相ロイド・ジョージなどが対立していた。ミュンヘン会議(1938年9月)のイギリス宥和政策には戦争の悲劇を拡大したという批判はつきまとうものの、この教訓を取り上げて現代政治に強硬外交を適用することも危険な面があり、世界史授業として一番重要な問題を含む教材であろう。1938年9月29日から30日のミュンヘン会議によって、1939年3月ドイツはチェコスロヴァキアにズデ―デン地方を割譲させた。ドイツは東・中欧進出の戦略的優位の態勢を固めた。
本当にチェンバレンにノーベル平和賞が贈られたのだろうか、と記述に驚きと疑問を感じた。事実関係を調査してみると、この時期のイギリス政治家チェンバレンには二人いることがわかった。ジョセフ・オースティン・チェンバレン(1860-1937)とネビル・チェンバレン(1869-1940)である。異母兄のオースティンはミュンヘン会議の時はすでに故人であり、ミュンヘン会議に出席したのはもちろん首相のネビル・チェンバレンである。彼は会議から飛行機でロンドンに着くと、タラップを降りながらヒトラーのサインした協定書を掲げて「平和の使徒チェンバレンです」と満面の笑みで語っていたという。しかしこの彼がノーベル平和賞を受賞した事実はない。ノーベル平和賞を受賞したのは、1925年のロカルノ条約締結で評価された異母兄のジョセフ・オースティン・チェンバレンである。つまり同姓のチェンバレンを取り違えたのである。
「詳説世界史研究」最新版を確認していないが、明らかなミスで、おそらく訂正されていることと思うが、誤解されやすい事例である。ネット検索すると、「ミュンヘン会議のあとネビル・チェンバレンはノーベル平和賞を受賞した」と書いたブログが二件あった。英首相にノーベル平和賞をという声が高まったことは事実であるが、首相は辞退したらしく、現在の受賞者一覧をみる限りネビルの名前は見当たらない。
ちなみに「宥和政策(アピーズメント・ポリシー)」は、国際政治でしばしば使われる重要な用語である。三省堂によると「現状打破をはかる強硬な外交政策に対して、ある程度の譲歩をして衝突を避け、当面の安定を維持しようとする外交政策。第ニ次大戦勃発前にイギリス首相チェンバレンがドイツに対してとった政策に代表される」とある。今日、北朝鮮に対する6ヵ国協議などを考える上でも高校世界史から学ぶことは大きい。
ノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレン
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