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2016年4月13日 (水)

石川啄木とその妻節子

Img_1508312_59112561_0   石川啄木(1886-1912)と堀合節子(旧姓金矢)が出会ったのは、明治32年の頃といわれ、共に満13歳のときだった。啄木は盛岡中学2年生。節子も縞木綿の着物に、紫の袴を胸高にはいて、私立盛岡女子校に通う2年生だった。節子と同級生だった和久井のぶ子の記憶によると、節子は4年の2学期ころから、学校を休んで啄木の下宿へ行き、短歌を教わっているという評判がたった。彼女は夜など、和久井のぶ子の家へ勉強しにいくと称して教科書を持って家を出て、その実、啄木の下宿へ行って詩や音楽のことを語り合っていたらしい。啄木の友人の佐藤善助によると、そのときすでに二人の関係は精神的なものをこえて、肉体によって結ばれているように見えたという。

   啄木の中学生時代に芽生えた堀合節子との恋は、その後大人たちの知るところとなり、二人は引き裂かれた。もと士族であり、岩手郡役所に勤務していた節子の父堀合忠操は激怒した。しかし忠操の姉がとりなして、節子は思いつめているから、許さなければ自殺するかもしれないと脅かして、忠操の怒りをやわらげ、二人の仲はいちおう認められた。明治37年2月3日、啄木の老母は盛岡の堀合忠操の家を訪問して、啄木と節子の縁談を正式に決定した。当時の啄木は中学を退学して、文学で身を立てようと考え、婚約してまもなく上京して詩集「あこがれ」を出版した。一部からは天才詩人との評判を得たが、残本多くあてにしていた印税も入らず、上京中の啄木のもとに、結婚式の日取りの知らせがあり、啄木は盛岡へ行くため汽車に飛び乗った。しかし途中、土井晩翠をたずねて15円おくられたりしたが、結局、盛岡へは予定していた結婚式の日になっても帰らなかった。やむなく婿のいない結婚式を挙げたが、啄木の友人たちは啄木の行状を怪しみ、節子に結婚を思いとどまるように話した。それに対して節子は、手紙に、

「吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候。」とある。

    啄木は6月4日に、節子が待つ盛岡市帷子小路8番戸の新居に姿を現わした。啄木は明治45年4月13日、死去。そして、節子も啄木の死去した1年後の大正2年5月5日に死去する。ともに26歳の短い生涯だった。

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