無料ブログはココログ

« 「真実の口」のシーンはペックの発案だった | トップページ | 斎藤道三、長良川の戦いで敗死(1556年) »

2016年4月20日 (水)

大空の英雄を殴った小説の神様

Photo
 「わか鳥」号

    第一次世界大戦における撃墜王といえばドイツのマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892-1918)である。彼は愛機フォッカーDr.1を赤く塗っていたからもわかるように自信家であったが、その騎士道的プライドの高さから「レッド・バロン(赤い男爵)」と呼ばれていた。

    複葉機による航空戦の華やかりし時代に、日本人として第一次世界大戦に勇戦した男爵「バロン滋野」がいた。本名は滋野清武(1882-1924)。フランスの飛行学校で飛行術を学び、大正元年に徳川好敏に次いで日本人で2番目に、万国飛行免状(アエロ・クラブ)を取得した。その年8月、明治天皇の病状が悪化したため、愛機「和香鳥号」(若くして亡くなった妻・清岡和香子に因む)と共に帰国。大正2年には実演飛行を何度か行い大いに注目を集め、同年4月20日、日本で45分間の飛行中に高度300mの記録を樹立した。大正3年4月、航空機材買付けのためにフランスへ戻るが、第一次世界大戦が勃発。そこで彼はフランス陸軍に志願し連合軍の一員として活躍、レジオン・ドヌール勲章、クロワ・ビーゲール勲章を受ける。やがて美しい未亡人ジャーヌに出会い、大正6年に結婚。大正9年に帰国するが、大正13年には43歳の若さで亡くなっている。

   ところで学習院初等科時代、滋野は、志賀直哉、有島壬生馬、松方義輔から集団暴行をうけたことがある。志賀の「人を殴った話」によると、「Sの父は日清戦争の時の陸軍中将で、男爵になった人だが、もう亡くなっていて、Sが男爵をついでいた。陰性なたちで、皆が運動場で騒でいるような場合にも、仲間と小使部屋で、密かに煙草を喫っているというような子供だった。痩せて、ヒョロヒョロと高く、無表情の青白い顔には何か傲慢な感じがあった」とある。東京直下地震があった明治27年の話で、12歳の事件である。「Sを殴って、しばらく経った或日、放課後、私は四谷見附に近い門から出るつもりで屋根だけで側面のない廊下を来ると、不意にクラクラと何か一寸分らないショックを頭に感じた。背後から石をぶつけられたのだ。Sが逃げて行く。私は本の包みを其所へほり出して、直ぐ追いかけた。(略)私は学生の椅子に乗り、Sの頭を両腕でぐいと力一ぱいに抱きしめた。急にSは声を挙げて泣き出した。(略)Sは私に復讐をしたつもりだったが、直ぐ又、その仕返しをしたわけである。(略)Sは欧州の第一次大戦当時フランスにいて、飛行将校として戦争に参加し、勲章などを貰い、フランス人の細君を連れ、飛行機を持って、日本に帰って来た。帰ってから何か飛行機関係の仕事をしていたように思ふ。婦人雑誌に混血の赤児を中に細君と写した写真が出ていた事がある。そして間もなくSは胸の病気で亡くなった。今頃になって、如何にも孤独だったSに対し、気の毒な気もするのだが、然し、兎に角、妙に人に好かれぬ男だった」と結んでいる。快と不快、好悪の感情が激しい志賀直哉の一面を知るエピソードである。

« 「真実の口」のシーンはペックの発案だった | トップページ | 斎藤道三、長良川の戦いで敗死(1556年) »

「日本文学」カテゴリの記事

コメント

志賀直哉の好き嫌いの激しさは有名ですが、総じて生意気な自信過剰な男は機雷だったようですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「真実の口」のシーンはペックの発案だった | トップページ | 斎藤道三、長良川の戦いで敗死(1556年) »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30