無料ブログはココログ

« 燃えつきた車両・桜木町事件 | トップページ | チャイコフスキー生誕地ヴォトキンスク »

2016年4月24日 (日)

漢室再興を掲げた蜀の昭烈帝

Liu_bei_portrait    223年のこの日、蜀漢の皇帝、劉備、字は玄徳が没する。涿郡涿県の人。蜀の先主。在位221-223年。前漢景帝の子中山靖王劉勝の子孫と称した。幼くして父に死なれ、母と草履売りや蓆織りで暮らしを立てた。若いときから読書を好まず豪侠たちと交わりを結び、関羽・張飛はこのころよりかれに従っている。黄巾の乱の際に手柄を立てたが、根拠地を持たないかれは、各地を転々とし、公孫瓚、曹操、袁紹などのもとに身を寄せる。以前より曹操とは親交があったが、次第に曹操と敵対するようになる。201年、汝南で曹操に敗れ、荊州の劉表のもとに走る。207年、劉備は野に隠れていた諸葛亮を三顧の礼をもって迎える。208年、曹操が南征を開始すると、劉表のあとを継いだ劉琮は、戦わずして荊州をあけわたした。劉備はあわてて南方の江陵へ撤退することにしたが、急迫した曹操の軍に当陽の長坂でついに追いつかれてしまった。この戦いで、劉備は惨敗を喫し、一時は妻子を見捨てて逃げるといったていたらくであったが、張飛の活躍でどうやら虎口を脱することができ、道を東にとって夏口へと逃れた。ここで劉備は諸葛亮を孫権のもとに派遣し、これと同盟を結んで赤壁の戦いで曹操を撃退した。その結果、荊州の長江以南の四郡を手に入れ、209年、荊州の牧となって、はじめて根拠地を得た。

   211年、蜀の領主劉璋の招きに応じて、みずから蜀にはいり、翌年、劉璋に反旗をひるがえし、214年、ついに成都を開城させて、益州の牧となった。曹丕が献帝の禅譲を受けて魏王朝を創建すると、221年、漢室再興の大義名分を掲げて帝位についた。

    しかし、関羽の仇を取るため、群臣の反対を押しきって東征を断行、夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗を喫した。命からがら白帝城に逃げもどったところで病に倒れ、後事を諸葛亮に託して、悶々たるうちに永安の地で没した。享年63歳。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本 中国史シリーズ1、4月24日)

« 燃えつきた車両・桜木町事件 | トップページ | チャイコフスキー生誕地ヴォトキンスク »

「世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 燃えつきた車両・桜木町事件 | トップページ | チャイコフスキー生誕地ヴォトキンスク »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30