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2016年4月30日 (土)

2代目は凡庸

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  「江~姫たちの戦国」は徳川秀忠、豊臣秀頼、真田幸村・・・・。初代が築いた家財産を2代目、3代目がどのように発展させるのかに見所があった。秀忠は温和でがまん強い性格だが凡庸であった。加藤清正の嫡男・広忠も凡庸な人物らしく、肥後一国を没収され出羽庄内の酒井忠勝に預けられ、子の光正は飛騨高山に流された。光正は法華寺(岐阜県高山市)の墓に眠っている。秀忠、家光の時代、改易大名も多い。安芸広島の福島正則は改易、子の正利は旗本に落とされた。出羽山形の最上氏も義光の孫の義俊のとき改易となる。

    孔子の長男は孔鯉(前532-前481)。字は伯魚。前510年に結婚し、子どもももうけているが、孔子より先に亡くなっている。愚息ではないものの凡庸な感じがする。本居宣長の長男、春庭は失明するが立派な国学者であった。ソクラテスにも3人の息子がいた。ソクラテスが死刑になったとき、長男ランプロクレスLamproclesは青年であり、下の2人ソフロニコスSophroniscus、メネクセノスMenexenusはまだ小さな子どもだったが、後世とくに名を残すほどの業績はなく、「愚かで退屈(silly and dull)」の評である。ナポレオンといえば、一世も三世も世界史に大きな足跡を残した皇帝であるが、そのあいだにはさまれる二世のこととなると、知っている人は少ない。

 

 

広辞苑に載っている少し面白い言葉

   桂歌丸が笑点の大喜利司会を引退するそうである。長い間、お疲れ様でした!ところで大喜利は、お題に応じた面白い回答を披露し、よい答えには座布団をあげるというシステム。当時すでに他局でも大喜利の演芸番組があり、顔に墨を塗るものだった。大喜利という言葉はお茶の間に50年にもわたり浸透しているが広辞苑には「大切り」として載っている。「喜利」は客も喜び演者も利を得るという意味の当て字。もと、江戸歌舞伎で二番目狂言(世話物)の最後の幕のこと。また、一般的には演劇や演芸で、その日の最後の幕のことをいう。現在「大喜利」という言葉は、主に寄席で使われ、その日の最後の幕として何人かの落語家による頓智比べや洒落比べなどをいう。

   広辞苑に載っていない言葉は無数にあるが、反対に載ってなさそうで載っている少し面白い言葉を探してみる。ラブラブというのは「男女の仲が非常によいこと」だが、広辞苑にある。NMB48の新曲「甘噛み姫」。甘噛みとは、「家畜やペットなどが、(人の指などを)軽くかむこと」とある。「甘噛み姫」の歌詞の意味はもちろんペットではなく、男女関係の愛情表現の一つか。伊東ゆかりの「小指の思い出」に近いものであろうか。

西から昇ったお日さまが東へ沈む♪

A あり得ないことの慣用句に「たとえ太陽が西から昇っても」という表現がある。古い手塚治虫の短編の漫画を探してます。手塚らしき人物がある中学校の校長室で、太陽が西からのぼっている絵、つまり太陽が右端に描かれた絵を見つけた。校長は古い話を語った。美術の時間に、ある生徒は太陽が西から昇る絵を描いた。校長はそんなことはあり得ない、として絵の描き直しを命じた。しかしその生徒は拒否して、とうとうそままま卒業してしまった。10年後、その生徒は宇宙飛行士になり、宇宙から通信してきた。「僕はもう地球を逆に8回も回りました。そして・・・僕は見た。太陽が西から昇る」と。この漫画のタイトルは忘れたが掲載誌のタイトル、発行年が知りたい。

Q 「太陽がさかさまだ」手塚治虫 中一コース 1962年8月15日号夏休み臨時増刊号

イギリスの対独宥和政策の失敗

   「詳説世界史研究」木下康彦・木村靖ニ・吉田寅編、山川出版社(初版1995年で第8刷の2000年版)の「ナチスの侵略」の項(474p)イギリスの「宥和政策(アピーズメント=ポリシー)」の註釈として次のような記述がある。

   当時のイギリスの世論は平和主義が強く、「ミュンヘンの妥協」が成り立ったとき、イギリスの下院では空前の歓声がおこった。チェンバレンの帰国は「平和の使徒が帰る」ごとくであったという。翌年のノーベル平和賞がチェンバレンに与えられたことなど、今日からみれば皮肉な現象であった。

   第二次世界大戦前のイギリスの有力政治家は、宥和主義者のチェンバレン首相、ハリファックス外相、反宥和主義者は、チャーチル元蔵相、イーデン前外相、元首相ロイド・ジョージなどが対立していた。ミュンヘン会議(1938年9月)のイギリス宥和政策には戦争の悲劇を拡大したという批判はつきまとうものの、この教訓を取り上げて現代政治に強硬外交を適用することも危険な面があり、世界史授業として一番重要な問題を含む教材であろう。1938年9月29日から30日のミュンヘン会議によって、1939年3月ドイツはチェコスロヴァキアにズデ―デン地方を割譲させた。ドイツは東・中欧進出の戦略的優位の態勢を固めた。

本当にチェンバレンにノーベル平和賞が贈られたのだろうか、と記述に驚きと疑問を感じた。事実関係を調査してみると、この時期のイギリス政治家チェンバレンには二人いることがわかった。ジョセフ・オースティン・チェンバレン(1860-1937)とネビル・チェンバレン(1869-1940)である。異母兄のオースティンはミュンヘン会議の時はすでに故人であり、ミュンヘン会議に出席したのはもちろん首相のネビル・チェンバレンである。彼は会議から飛行機でロンドンに着くと、タラップを降りながらヒトラーのサインした協定書を掲げて「平和の使徒チェンバレンです」と満面の笑みで語っていたという。しかしこの彼がノーベル平和賞を受賞した事実はない。ノーベル平和賞を受賞したのは、1925年のロカルノ条約締結で評価された異母兄のジョセフ・オースティン・チェンバレンである。つまり同姓のチェンバレンを取り違えたのである。

   「詳説世界史研究」最新版を確認していないが、明らかなミスで、おそらく訂正されていることと思うが、誤解されやすい事例である。ネット検索すると、「ミュンヘン会議のあとネビル・チェンバレンはノーベル平和賞を受賞した」と書いたブログが二件あった。英首相にノーベル平和賞をという声が高まったことは事実であるが、首相は辞退したらしく、現在の受賞者一覧をみる限りネビルの名前は見当たらない。

   ちなみに「宥和政策(アピーズメント・ポリシー)」は、国際政治でしばしば使われる重要な用語である。三省堂によると「現状打破をはかる強硬な外交政策に対して、ある程度の譲歩をして衝突を避け、当面の安定を維持しようとする外交政策。第ニ次大戦勃発前にイギリス首相チェンバレンがドイツに対してとった政策に代表される」とある。今日、北朝鮮に対する6ヵ国協議などを考える上でも高校世界史から学ぶことは大きい。

 

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ノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレン

 

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イギリス首相のネヴィル・チェンバレン

 

 

 

 

なぜ「揚子江」と呼ばれるようになったのか

   青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ長江。全長は6300㎞で、中国およびアジアで最長、世界でも第3位。中国では長江と呼んでいるが、中国国外では揚子江の名で良く知られている。では、なぜ、中国以外の人が揚子江というようになったのか。

   これは誤解の産物である。19世紀の初め、西洋人が船を仕立てて長江を下っていた。そして、彼は船頭にたずねた。「ところで、この川の名前は何という?」聞かれた船頭は、川の名前を聞かれたとは思わず、たまたま近くに架かっていた橋の名称を答えてしまった。この橋の名称が、「揚子橋」だったのである。一方、西洋人のほうは、川の名前を聞いたのだから、揚子江の聞き間違いだろうと勝手に解釈した。かくして、中国以外では、揚子江が通り名になってしまった。(参考:「雑学全書」知恵の森文庫)

韓国最初の近代病院「広恵院」

   李朝末期の1885年、アメリカ人宣教師で医師のホレイス・ニュートン・アレン(1858-1932)が国王高宗の支援を受けて広恵院を開設する。韓国で最も歴史の古い近代西洋医学の病院である。まもなく済衆院に改称する。1904年、アメリカの事業家ルイス・H・セブランスの寄付により、済衆院を基盤としてソウル新村にセブランス病院が新築される。1957年にセブランス医科大学校が延禧大学校に統合され、延世大学校医療院へと発展する。

ナポレオンを救出せよ

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  コロンブスの西インド発見以後、アメリカ南部の探検に着手したのは、最初スペイン人だった。その後、この地方は手つかずで放置されていたが、17世紀になってフランス人が北方大湖地方からミシシッピーを下ってやって来た。1681年、フランス人探険家ラ・サールはミシシッピー川を囲む土地をフランス国王にちなんで「ルイジアナ」と名づけた。1732年、ルイジアナはフランスの州となった。アメリカ独立戦争が勃発するや、フランスとスペインは革命軍を援助しイギリスと戦った。 

   1803年4月30日、ナポレオンはルイジアナと西フロリダをアメリカ大統領ジェファーソンに1500万ドルで譲渡した。ルイジアナがアメリカの州に正式に編入されたのは、それから9年後の1812年4月30日のことであった。その頃ニューオーリンズは州の首府であった。これより先、ナポレオンはイギリスに宣戦したため、ニューオーリンズはイギリス軍の侵略の標的になった。アンドリュー・ジャクソン将軍はイギリスの将軍サー・エドワード・パケナムの軍を破り、侵略を防いだ。このような諸事情からニューオーリンズではナポレオンの人気は高かった。ところが、ナポレオンがイギリスに敗れセントヘレナ島に流刑されることになると、密かにナポレオンをセラフィン号で救出し、ニューオーリンズに連れてこようとする作戦が企てられた。実際には、ナポレオンは1821年に孤島で死んでしまい、この作戦は頓挫した。ニューオーリンズ市長ニコラス・ジローが家を建て家具を整えて皇帝を迎える用意をしていたという邸宅が「ナポレオン・ハウス」として現在も残っている。

K87b5y9cfm8nb7yn   「ナポレオンを救出せよ!」という奇抜な話を映画や小説にしたらさぞかし面白いだろうと思ったら過去にあった。サイレント映画でフローレンス・ヴィダー(1895-1977)主演映画「海の荒鷲」(フランク・ロイド監督、1926年)。( Florence Vidor )

2016年4月29日 (金)

十二指腸はなぜ12本の指!?

   神経という訳語は、杉田玄白がはじめて「解体新書」のなかで用いた術語である。玄白は「和蘭医事問答」のなかで、「神気」の神と、「経脈」の経とを合わせて、この新語をつくったと述べている。神経そのものについては、玄白よりも以前の南蛮医学や紅毛医学でも取り扱われていて、骨髄節または世奴(せいぬ)などと呼ばれていた。このほかにもクルムスの「解剖学図譜」(Anatomische Tabellen)の訳語には今日も医学用語として使われているものがある。「十二指腸」(duodenum)もその一つである。解体新書には「十二指腸は長さ十二の指の横径の如くして、胃の下口に接す」とある。だが実際の長さは25~30cmで、指12本の長さよりやや長い。これを翻訳者がインチの単位を知らなかったために生じた誤訳であるとするのは俗説でりあり、西洋でも古くからこの部分が指の幅の12倍ほどであるといわれていた。(M氏からの指摘により一部訂正2012.1.3)

○×クイズ問題集1

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  〇×クイズ問題集です。お好きな問題を選んでチャレンジしてください!

剣戟スター近衛十四郎は出演作すべてが時代劇である。

世界中のカラスはみな黒い。

北極と南極、北極のほうが寒い。

大相撲内閣総理大臣杯を自ら国技館で手渡したのは小泉純一郎からである。

熊野市は和歌山県にある。

オスロ、ストックホルム、ヘルシンキ。三都市で一番緯度が高いのはオスロである。

   (答えはすべて×)

碁石の黒石と白石、黒石のほうが若干大きい。

チョウの羽は4枚ある。

加山雄三は岩倉具視の玄孫(やしゃご)にあたる。

麻生太郎は大久保利通の玄孫にあたる。

大島優子は前田敦子より年上である。

煙草のニコチンはニコという人名に由来する。

凸凹は漢字である。

参議院議員でも内閣総理大臣になれる。

    (答えはすべて○)

胡麻を摺る

   上司や得意先にお世辞を言ったり、へっらったりすることを「胡麻を摺る」という。なぜ食べ物の胡麻が用いられるのであろうか。煎ったゴマをすり鉢ですり潰すと、あちこちにゴマがくっつくことから、このようにベタベタくっつく様子と、上司にベタベタする様子とが重なって、こう言われるようになった。江戸末期の「皇都午睡」に「追随するをおべっかいといひしが、近世、胡麻を摺ると流行詞(はやしことば)に変名しけり」とある。

ロダン「考える人」は何を考えているのか?

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ナポレオンと酒

Antiguabotelladebrandyjereznapoleon    皇帝ナポレオン・ボナパルトは高級ブランデーにその名がついていることから、さぞかし酒好きと思われるかたも多いが、実はあまり酒が飲めず、コーヒーを好んだといわれる。高級ワインを水で薄めて飲んでいた。ではどうしてブランデーにナポレオンという名称が付いたのか。1811年、ロシア遠征の前の年のこと、ヨーロッパの空に彗星が現れた。彗星は不吉な出来事とされていたのだ、人々は、戦争や飢饉が起こるのではないかと心配した。しかし、案に相違して、3月20日、ナポレオンの妃マリー・ルイーズがナポレオン2世(1811-1832)を出産。そのうえ、この年はまれにみる好天続きで、葡萄は空前の豊作、いわゆるビンテージ・イヤーだった。以前から彗星の出現した年のワインは「コメット・ワイン」として珍重されてきたが、この年、1811年の「コメット・ワイン」を蒸留してつくったブランデーは、ナポレオン2世の誕生にあやかって特に「ナポレオン・ブランデー」として名付けられ、珍重されてきた。今日では、世界中に残り少なくなったので、市販されることはなく、わずかに個人の酒庫に1本か2本ずつ秘蔵されている。現在、市販されているナポレオンは、これらは無関係のものである。(Napoleon,Brandy)

アチソンライン

Dean_g__acheson_u_s__secretary_of_s   トルーマン大統領の下で国務長官を務めたディーン・アチソン(1893-1971)とマッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソン・ジュニア(1896-1947)は戦後の同時期に活躍した人物で2人は紛らわしい。「アチソンライン」で知られるのはディーン・アチソンのほうである(画像)。ジョージのほうは1947年に死亡している。1947年8月15日、ワシントンに戻るため、B17爆撃機に搭乗して東京を出発した。17日、ジョージ・アチソンを乗せた爆撃機はオアフ島の西方約100㎞の地点で燃料切れにより墜落した。アチソンの遺体は発見されず、8月17日に死亡したものと推定されている。アチソンラインとはディーン・アチソンが主張したもので、アメリカの極東防衛線から朝鮮半島を除外したため、朝鮮戦争の勃発原因になった宣言といわれる。ディーン・アチソンは1950年1月、太平洋でのアメリカ極東防衛線を、韓国と台湾を除外したアリューシャン列島ー日本の沖縄ーフィリピンを結ぶ線とした。この宣言により米軍は朝鮮半島から撤収し、その隙に乗じて金日成が6・25戦争を引き起こした。その後この宣言はアメリカ共和党から非難を浴びて廃止された。

北摂の古社寺 「満願寺」

11610_030    大江山の酒呑童子退治で知られる坂田金時(956-1012)は源頼光の家来で、古今無双の豪勇。九州征伐の途中で死去した。兵庫県川西市にある神秀山満願寺にその墓がある。満願寺は奈良時代の創建で、源氏ゆかりの寺として崇敬を集めた。本尊、千手観音の霊験によって、信仰する人はかならずその願いが満つることから満願寺と称したといわれる。

  ちなみに坂田金時とは、足柄山の金太郎のモデルになった人物である。金時の活躍は「今昔物語集」にも残っているが、これを題材にして江戸時代、近松門左衛門が金時の話を芝居にして庶民にも広く知られるようになった。もっとも、そのときは、金時の幼名は「快童丸」とされ、金太郎という名が登場するのは、江戸中期以降、草双紙や絵本に登場してからのことである。

2016年4月28日 (木)

ブラジル移民物語

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アリアンサ移住記念館
北原地価造の住居跡(昭和4年頃)

   明治41年4月28日、水野龍(1859-1951)を団長とする第1回ブラジル移民団、170家族、792人は「笠戸丸」で神戸港を出港、6月18日、サントス港に到着した。明治43年には第2回移民団が旅順丸に乗って247家族、909人がブラジルに渡った。いまやブラジル日系社会は150万人を超え、成長著しいブラジル社会の支えとなっている。

   第1回芥川賞受賞作品の石川達三「蒼氓」が発表されたのは昭和10年のことだった。

   神戸三宮の「国立海外移民収容所」。ブラジル移民として全国各地から集まってきた家族たちの、昭和5年3月8日から15日までを描く。移民団を構成するのは、落葉のように掻き集められてきたものばかりである。気後れしながら移民収容所の受付をくぐる。待合室にあてがわれた倉庫には、秋田から来た貧農出の姉弟佐藤夏と孫市がいる。夏は、堀川との恋愛をあきらめ、門馬勝治を形式上の婿にして、孫市のためにブラジル行を決意した。孫市は、兵役をまぬがれるために移民の群れに投じたのか、「俺は忠義でねって言われるくれえだら、ブラジルさ行かねつもりだ!」とつっぱねる。貧しい日本での生活に追われてのものなのである。再渡航の堀内は本当のブラジルを知っている。ところが移民たちは、トラホーム、栄養不良など、体格検査で不合格になり、乗船許可のおりなくなることを気にかけている。話にきいたブラジルのいいところだけを空想しているにすぎないのだ。ロンドン軍縮会議、現職文部大臣の連座した疑獄事件にいたるまでにも、東京市会議員疑獄、私鉄疑獄、合同毛織事件、樺太山材事件とうちつづいている。こんなうそむさい日本のことは、もう知らないのに限るというのが堀内だった。最後の日の8日目、15日に900余名の移民集団の乗船した、ら・ぷらた丸は神戸港を出航した。(引用文献:今村忠純「日本名作事典」平凡社)

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 水野龍

2016年4月27日 (水)

キッスは奈良時代からあった

Photo   最近、女性議員の路上チューが話題となった。日本人のキスの風習はいつ頃から始まったものであろうか?ブログ「MIKAのルンルン日記」を読むと「日本人はキスしません、と言ったものの、実際恋人同士はキスしますよね。でもそれはどうやら戦後欧米の影響を受けて始まった風習らしく、それ以前の時代の人はキスなどしたことがないらしいです。その証拠に私の78歳になるお祖母ちゃんは、そんなの人生の中で一度もしたことかない、と私に暴露してくれましたし、数年前に日本で戦前のおばあちゃん達は例えば子供がいてもキスした事が無い、ということを調査するテレビ番組を見たことがあります」と書かれている。しかし戦前に日本人はキスをしなかったという俗説は明らかな誤りで、歴史文献を漁ると日本人のキスの歴史は意外と古くからみえる。キスの習慣は奈良時代に中国から伝えられたといわれる。しかし、それはごく一部の貴族階級だけのことで、庶民の間に普及したのは江戸時代になってからでオランダ人が伝えたらしい。キスのことを口を二つに重ねることから「呂の字」といった。日本初の英和辞典「諳厄利亜語林成」では「Kiss 相呂」と載っている。 さらに、キスという言葉が「口吸い」から「接吻」という言葉になったのは明治初期のことである。キスを最初に接吻と訳したのは上田敏である。国木田独歩の恋愛日記「欺かざるの記」(1893年)には「接吻また接吻」と接吻の文字が何度も何度も出てくる。むかしの定番宴会ソング「軍隊のぞき節」の4番目の文句に「♪別れのキスもそこそこに くぐる営門2分前」とある。戦前、路上チューはあまりみられないものの、四畳半でキスは盛んにおこなわれていた。

    ところで米国大学の脳科学の研究によると、キスをすると、オキシトシンという愛情ホルモンの数値が上がり、大きな多幸感をもたらす。また唾液の交換により免疫力がアップするといわれている。

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2016年4月26日 (火)

日本語の中の仏教用語

  平成8年、京都の仏教大学が新図書館の建設にあわせて正門周辺の改修工事をした際、彫刻家・空充秋に門柱を依頼した。完成した門柱の側面には「平成之大馬鹿門」という字が刻まれていた。大学側はこれを問題視して、「馬鹿という言葉は大学には不適切」として字の削除を要求したが、話し合いは決裂し、結局、モニュメントは兵庫県宍粟市に移設されることとなった。このいわゆる「平成の大馬鹿門騒動」から20年が経過するが、日本人は好むと好まざるにかかわらず、あまりに言葉に執着しすぎるきらいがあるようである。騒動の元になる「馬鹿」という言葉の由来はサンスクリット語にあるといわれる。仏教大学の関係者がこれを知らない筈はないのだが摩訶不思議である。梵語「モーハ moha」の写音で、「事理に暗いこと」「暗愚」を意味する。漢訳では一般に「癡」とか「愚癡」とか訳されるが、「慕可(ぼうか)」が「馬鹿」の字にあてられたとする説もある。このように今日的意味からすれば、「馬鹿」の意味が異なるものであり、その跡を学究的に深く追求することが学問であり、翻って思うに「平成之大馬鹿門」という言葉はたいへん示唆に富むものではないかと考える。

   ところで、周知のように、日本語の中には仏教は翻訳という手段を通じて、インドから中国に受容されたのち、中国文化の一環として、わが国に渡来したものである。従って、日本語の中には多数の仏教用語が存在する。日本語の中にのこされた仏教的な語彙はわれわれは今日気づかずに用いている語が多くある。「アバタもえくぼ」元来は梵語で「腫傷」を意味するアルブタarbudaの俗語形アッブダ abbudaに由来する。「瓦」梵語カパーラ kapala(迦波羅)に由来し、原語は「皿」または「鉢」、さらに「骸骨」の意に由来する。このほか仏教用語に由来する語彙として、「奈落」「卒塔婆」「韋駄天」「境内」「涅槃」「娑婆」「菩薩」「鳥居」「荼毘」「沙門」「伽藍」「舎利」「錦」「玄関」「旦那」「達磨」「比丘」「夜叉」「羅刹」「修羅」「閻魔」「梅檀(せんだん)」「羅漢」「輪廻」など枚挙に遑ない。(参考:岩本裕「日本語における仏教語」アジア文化第11巻第2号 1974年)

只野真葛『独考』

   只野真葛(ただのまくず1763-1824)は、江戸後期の女性国学者。「赤蝦夷風説考」で知られる工藤平助の長女。これまで人名辞典では、「工藤綾子」で掲載されているが、36歳のとき只野伊賀に嫁して、只野真葛として「紅蓮尼伝」「奥州波奈志」「不問がたり」「松島紀行」「むかしばなし」など多数の著作があるので、近年「只野真葛」で知られるようになっている。

   とくに真葛が注目されるのは『独考』という著作の驚くべき内容である。自序によれば文化14年(1817年)12月に書き起こした。本書は広い視野と鋭い洞察力で経済至上主義を批判し、独自の宇宙論を展開している。例えば次のようなポイントを田辺聖子訳で紹介しよう。

「義という字は精神の緊張をさす。善い事柄に対して緊張すれば義となり、悪事に向かって緊張すれば暴となる。現れた結果はちがっても、発動の根元は同じなのに、聖人君子などと呼ばれる人々は元来、善心しか持ち合わせていないから悪人の心の動きがわからない。義と暴が同じ根より生じた正反対の精神活動だなどということも、理解できないようだ」

「仏教でも儒教でも浪費をやめろとおさとしになる。それなのに大伽藍や聖堂のような巨大な建造物を建て、中に孔子の人形などを飾って、公儀をはじめ歴々のお偉方までがありがたがっているのは矛盾ではあるまいか」

「女子と小人を養いがたいなどと見放したのは、孔子の教導能力の不足を暴露するものだ。むしろ恥さらしなのに、後世の弟子どもが声を大にして、孔子先生の恥を吹聴しているのは奇妙なことだ」(女性教育の必要性を説いている)

「生物界は鳥けもの虫に至るまで、生存競争の激しさの中で成り立っている。人生は戦いであり勝負である。勝ち負けに目くじら立てるのは卑しいことではない。人間を励ます原動力は勝とうとする意欲だ。博打は国禁だが、即座に勝負が判明する手っとり早さに、人々は心酔するのであって、オロシヤ国などては国王さえ気がるに博打をなさると聞いた」

「昔は土地を取り合う力の乱世だったが、今は金銀を奪い合う心の乱世である。貧乏人は苦しいので、その現実に気づいているけれど、金持ちはのんきなものだ。物をめぐむくらいで、心の乱世を切りぬけたと安易に考えているのは嘆かわしい」

「欧米人は懐中時計を手に行動する。時間の観念が日本人のようにルーズでない。また欧米人は肉食をする。このため短命だが頭脳の働きは優秀だ。日本人は穀類を多食し、長命なかわりに智術は外人に劣っている」

「外国では重臣たちもどしどし庶民階層から選ばれるし、国王、宰相といった人々も供廻りなどしごく簡潔に、町へ出てゆく。日本の貴顕の権威主義とは正反対といえよう」

「なまじ聖人の教えになど心を縛られていると、そんなものを歯牙にもかけない悪党に負けてしまう場合が多い。我が手で、我が心を締めつけるのは損だ。日本人にはこのタイプの固物が少なくない。もっと柔軟性を持つべきではなかろうか」(まるで与謝野晶子の歌、やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君、のようではないか)

   ただし、真葛『独考』の版刻出版は残念ながら実現されなかった。大正10年に『独考』を出版しようとした人があり、原本を東京の出版社に持っていったときに関東大震災があり、焼失してしまった。幸い写本と抄録が現存し、今日真葛の開明思想の一端をうかがい知ることができる。ルソーの自然思想、ダーウィンの進化論、ニーチェの先駆的実存主義、福沢諭吉の天賦人権論、フランクリンの科学的合理思想、などとなど、これらの近代思想を知っているとは思えないが、江戸期の仙台において彼女独自で思考していたことは驚くべきことである。近代の幕開きは、半世紀のちのことであるが、真葛の先駆的な開明思想は、今後注目すべき研究課題であろう。(参考:門玲子「わが真葛物語」藤原書店、関民子「只野真葛」人物叢書)

五風十雨

  本日の天気。晴れ。12時の気温25度。湿度56%。政府、熊本地震を激甚災害に指定。九州新幹線GW前に全通。▽タレントの前田健さんが前日、新宿の路上で倒れ、近くの病院へ搬送される。本日、急死。44歳だった。松浦亜弥などのものまねで知られた。▽東京五輪の公式エンブレム。A案の野老朝雄の作品「組市松紋」に決まる。▽イラク・バグダッドで自爆テロ。14人死亡、38人負傷。

CS放送5月の作品ラインアップ

  テレビの見過ぎは体に悪い。でも作品をよく選んで一日一本なら問題はない。「パークランド」(2013)とは、暗殺されたケネディとその2日後に今度は容疑者オズワルド自身が、ともに瀕死の状態で運び込まれた病院の名前。「白熱」(1949)はギャング映画の名作。ジェームズ・ギャグニー、バージニア・メイヨ、エドモンド・オブライエン、スティーブ・コクラン。「空中レビュー時代」(1933)ドロレス・デル・リオ、フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース。名曲「キャリオカ」が大ヒット。「野獣暁に死す」(1968)モンゴメリー・フォード、仲代達矢

1日ノルマンディ 将軍アイゼンハワーの決断 イマジカ
2日リベリオン ワルシャワ大攻防戦 ムービープラス
3日がい骨 ピーター・カッシング ザ・シネマ 
5日バークランド ケネディ暗殺真実の4日間 イマジカ
6日ハナ奇跡の46日間 LaLa
6日合衆国最後の日 イマジカ
7日極道大戦争 NECO
8日地球が静止する日 ムービープラス
9日ハムレット ザ・シネマ
11日夜を殺した女 フランス国際放送
13日野獣暁に死す イマジカ
14日サボタージュ ムービープラス
15日私の頭の中の消しゴム 銀河
16日空中レヴュー時代 ザ・シネマ
17日艦隊を追って ザ・シネマ
18日白熱 BSプレミアム

   連続ドラマは月曜・志都という女・ラヴソング、火曜・重版出来!、水曜・世界一難しい恋、金曜・コントレール、土曜・お迎えデス、日曜・真田丸・イニョプの道。「お迎えデス」土屋太鳳の美脚に注目。

風呂とキリスト教

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   本日は「よい風呂の日」。風呂好きの日本人からみると少し信じられないことだが、ヨーロッパで風呂を使う習慣ができたのは意外と新しく、18世紀になってからのことである。マリー・アントワネットは毎日入浴していたが、とても贅沢なことだった。革命家マラーは皮膚病の治療で入浴中に殺されたことはよく知られているし、ナポレオンも毎日、温水で入浴していたが例外的なこと。入浴を嫌う理由はどうやらキリスト教と関係があるらしい。「聖女アグネスは13歳で死ぬまで体を洗わなかった」「ヨーロッパ洗わずじまいで一千年」とまで言われている。古代ローマでは公共浴場が普及したが、キリスト教では他人に肌を見せることをきらうことと公共浴場が退廃的であることから、中世以降もヨーロッパでは風呂は普及しなかった。(4月26日)

 

本渓湖炭鉱爆発事故

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P063 大倉鉱山本渓湖炭鉱はかつて満洲国本渓(いまの遼寧省本渓)にあった。1942年4月26日、鉱山内で可燃性ガスと石炭の粉塵による大爆発事故が起こった。3000人以上が死んだ事故であるが、批難を恐れた政府は記念碑を建て、死者は1549人と過少に記している。肉丘墳は、犠牲者の集団墓地であるが、「永劫不朽殉難産業戦士之碑」と刻まれている。ほとんどの日本人がこの事故のことを知らないのは遺憾である。

2016年4月25日 (月)

虎徹の真偽

Chofusaikojikondozazo   新選組局長、近藤勇は慶応4年のこの日、板橋宿の入口にあった馬捨場(現在の北区滝野川)で斬首された。板橋駅滝野川口に供養碑がある。

  近藤勇の差料といえば虎徹。だが、その刀は無銘であったとか、偽物であるとか、諸説紛々として、真偽は謎に包まれている。明治の官僚、金子堅太郎が近藤の刀を所持していたという話がある。その名刀は関東大震災で焼失してしまった。新聞記者の中村勝五郎の談によると、「若い時、金子から近藤の虎徹を見せられた。世間では近藤の虎徹は偽物だと言っていますが、あれは本物だった」と証言している。(4月25日)

文豪が愛した饅頭茶漬けと切山椒

Dsc04072_r   森鴎外も夏目漱石も甘党で知られている。森鴎外の饅頭茶漬け。「つめの白い清潔な手で饅頭を四つに割り、その1つを御飯の上にのせ、煎茶をかけて食べる」と森茉莉がエッセイに書いている。鷗外はドイツ留学で細菌を顕微鏡で見てから、野菜も果物も生では食べなかったという。

 

D0065324_9595187   夏目漱石も最中や羊羹など甘い和菓子が好物だが、ここでは切山椒。散歩に出かけた先の風景も和菓子を連想する。「田圃を掘り返している。遠くの染物屋に紅白の布が長く干してあった。大きな切り山椒の林であった」(明治42年4月25日の日記)切山椒とは、山椒を入れた短冊形のうるち米の粉の菓子。

1783年、熱気球による飛行に成功

  ライト兄弟よりも120年も前に空を飛んだ人がいる。フランスのピラートル・ド・ロジェ(1756-1785)である。熱気球を考案したモンゴルフィエ兄弟は、1783年4月25日、有人飛行に成功した。ロジェとフランソワ・ダルブンド侯爵を乗せた気球は、約8.8kmを25分間にわたって飛行した。人類史上初めて空を飛んだロジェは、2年後、ドーバー海峡を飛行中、水素に引火した爆発で事故死した。フランスのアンドレー・ジャック・ガルヌランは1797年10月22日、気球から世界初のパラシュート降下に成功した。(Montgolfier)

チャイコフスキー生誕地ヴォトキンスク

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   ピョートル・チャイコフスキーは1840年4月25日(新暦で5月7日)にウラル地方のヴォトキンスクに生まれた。生誕地ヴォトキンスクはカマ川沿いに1759年に建設された鉱山町。父イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキー(1795-1880)は鉱山技術者で工場長だった。町はモスクワから700kmも離れたところにあり、ここで幼いチャイコフスキーは8年間過ごした。

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    晩年の8年間(1885-1893)を過ごしたクリンの町はモスクワ郊外にあり、現在は「チャイコフスキーの家博物館」が公開されている。演奏旅行で忙しく、実際にここに住んだのは晩年の2年間だけだった。交響曲第6番「悲愴」はここで作られた。( Tchaikovsky )

2016年4月24日 (日)

烙印の女 佐々城信子

Img_0001_2  従軍記「愛弟通信」を国民新聞に連載して好評を得た国木田独歩(1871-1908)は、明治28年6月9日、キリスト教婦人矯風会書記長・佐々城豊寿(1853-1901)の従軍記者招待晩餐会に出席し、そこで長女の佐々城信子(画像)を初めて知った。

   佐々城豊寿は嘉永6年、伊達藩士・漢学者・星雄記の3女として生まれた。幼いころから才気煥発で、のち婦人解放運動の先駆者となる。明治11年に陸軍軍医・伊東本支と知り合い、彼との間にノブをもうけた。この私生児が、のちに独歩に「欺かざるの記」を生み出し、有島武郎に「或る女」のヒロイン早月葉子のイメージとなった、佐々城信子である。

   独歩と信子は愛し合うようになる。しかし、自由恋愛者であるはずの母・豊寿は独歩のことを「どこの馬の骨ともわからぬ男」と蔑視し、結婚に反対する。周囲の反対を押し切り結婚した二人に破局が訪れる。明治29年3月28日、父の病気のために麹町区隼町に同居していた独歩は、矯風会のメンバーである潮田千勢子(1845-1903)宅で豊寿と和解の面会をした。ついに4月24日、独歩と信子は離婚した。この破婚によって豊寿は娘の情操教育を誤ったものと世間から糾弾を受け、雪深い北海道へ隠棲した。

谷崎潤一郎、二番目の妻

Img_0029 「僕は初めてほんとうの夫婦生活というものを知った。精神的にも肉体的にも合致した夫婦と云うものの有り難味が45歳の今日になって漸く僕に分かった」と谷崎潤一郎は書いている。だが谷崎の21歳も年下の婦人記者、古川丁未子(ふるかわとみこ、画像)との二度目の結婚生活はスピード離婚に終った。昭和6年4月24日に挙式しているので、85年も昔の話である。昭和8年5月には別居、昭和9年10月には離婚している。丁未子は根津松子とは対照的で、断髪が似合うモダンガールだった。「猫と庄造と二人のをんな」「蘆刈」や「寝園」(横光利一)などの作品のモデルとなっているので、かなり出版関係者の間では知られた女性だったようだ。谷崎潤一郎との3年ばかりの短い結婚生活の後、丁未子はどう生きたのだろう。離婚して間もなく、若い文芸春秋の編集員、鷲尾洋三(1908-1977)と再婚している。鷲尾は優れた編集者で、専業主婦に収まった。丁未子は、谷崎が亡くなってから4年後の昭和44年に亡くなっている。

2016年4月23日 (土)

気になる脇役俳優

   映画を見ていると、いつも脇役の俳優が気になる。俳優のリチャード・ダヴァロスが2016年3月8日、カリフォルニア州の病院で亡くなっていた。享年85歳だった。そのことは雑誌「SCREEN6月号」の訃報記事で知る。名作「エデンの東」で、ジェームズ・ディーンの兄アロンを演じた俳優といえば、どなたも記憶にあるだろう。脇役俳優に焦点をあてるともっと映画が面白くなる。市原隼人が主演している「極道大戦争」(2015)アクション俳優のヤヤン・ルヒアンはインドネシア人で47歳。プンチャック・シラットをはじめとした格闘術の達人である。ほかにも「ザ・レイド」シリーズや「スター・ウォーズ フォースの覚醒」に出演している。

   映画「プレデター」(1987)でコマンド部隊の一員で宇宙生物に殺される軍曹マックを演じるビル・デューク。その個性的な風貌は一度見たら忘れられない。「コマンドー」でもアーノルド・シュワルツェネガーと共演している。のちに映画監督としても成功をおさめた。現在も俳優・監督として活躍している。(Yayan Ruhian)

 

 

元祖カワイイが人気

  若者ことば「カワイイ」は日本のみならず、世界でも広がっているらしい。90年代以降みられた「カワイイ」の現象は女子高生や女子大生が論理的な思考は一切捨てて、ただ自分の感性に合ったものはすべて「カワイイ!」 の一言で片づけてしまうのだから、下品で軽薄と大人から見れば評判が悪かった。ところがAKBやハローキティをはじめとするこの「カワイイ」の文化がアジアを初め、欧米でも日本のポップカルチャーとして人気を集めると経済効果が上がるとあって社会的に認知されるようになってきた。そして最近は、 中原淳一、内藤ルネが現在の「かわいい」の元祖として注目されている。21世紀になって内藤ルネ展など全国でよく催される。回顧ブームともいえるが、現代につながるものがある。絵描き歌を歌いながら、ガラス板に両手でお絵描きするパフォーマンスの水森亜土も「カワイイ」の後継者といえるだろうか。猫のキャラクターやカップルがキスするイラストも懐かしい。

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見たい番組が重なったとき・・・・

   昨夜の巨人対DENA。9回リリーフの沢村が打たれて延長戦へ。9時から映画「アメイジング・スパイダーマン」と「シュガー・ラッシュ」が放送される。そして10時からドラマ「コントレール」がある。スパイダーマンを見て、シュガー・ラッシュは録画。コントレールは翌週火曜の再放送を見ることに。

2016年4月22日 (金)

八百長の語源は相撲にあり

   大正8年の「大日本国語辞典」に、「八百長 相撲にて、あらかじめ両力士が打合せをしておきながら、表面上よそおひて相撲を取ること」とある。いまでは日本語の隠語「八百長」は相撲やスポーツ等勝負事に限らず、内々示しあわせておいて、なれあいで事を運ぶことをいうが、もともとはこんな話がある。金指基「相撲大事典」によれば、明治のはじめ、相撲会所の出入であった八百屋の長兵衛という男が、そのころの相撲年寄であった伊勢海五太夫の囲碁の相手をするたびに、お得意様のごきげんをとるために、わざと負けたりすることがあり、これが仲間の人たちに知れわたり、それから相撲で故意に負けることを「八百長する」といいはじめた。いつしか相撲の隠語となっていたのが、いつのまにか、イカサマやインチキでなれあいの勝負をすることを八百長とあざけり罵るようになった。当時、八百屋では野菜だけでなく、乾物、海藻などいろいな商品をとりあっかっていたため、「たくさん」という意味で「八百屋」と呼ばれていた。協会では「八百長は今回が初めてで、過去は一度もなかった」と説明しているが、おそらく、相撲と八百長とは切っても切れない関係が昔からあるのだろう。7勝7敗の給金相撲。なんとか負けてくれと頼まれると、大負けしている自分は断わりきれず、勝を譲るということは当然起りうるだろう。もっとも協会ではこれを八百長とはいわず無気力相撲と呼んでいるそうだが。「八百長の情は人の為ならず」

なぜ三人組はヒットするのか

9b69   私たちの意識の底に、壮大な文明交流の歴史が隠されている場合がある。 「石の上にも三年」「仏の顔も三度」「三日坊主」と、三がつく言葉はよく耳にする。遠い昔、中国では三という数字は「天、地、人」をあらわしていた。つまりこの世のすべてを表わす数字であった。このように三には特別な意味があったから、数々の言葉が生まれたのである。「三宝」や結婚式の「三三九度」のように3の倍数が「おめでたい数」という起源は、実は中国ではなく古代インドの文化であるといわれる。「仏典」を通じて、インド人の価値意識が知らないうちに日本人の文化に取り入れられていたのである。

  テレビ草創期、「お笑い三人組」というNHKの長寿番組があった。(昭和31年~41年)。三遊亭小金馬、一竜斎貞鳳、江戸屋猫八の三人が主役の下町喜劇。「お笑い三人組」という言葉はしっくりと決まるが、これが「お笑い四人組」だと何故かおさまりが悪い感じがする。3人だと、ボケ、ツッコミ、残る1人がオサメル、ナダメルでクッションとしての役割をはたすので自然にバランスがとれるという説がある。トリオはまさに黄金比率なのだ。

   同じころ外国テレビで「三バカ大将」という伝説の番組があった。リアルタイムで見た本当に幸せな世代だ。「ウッヒハ ヘンチクリン ヘンチクリン ドンスカドン ラリーだ モーだ カーリーだ」という主題歌で始まるドタバタ喜劇。ラリー・ハワード(1895-1975、オカッパ)、ラリー・ファイン(1902-1975、途中まで禿あがっている)、カーリー・ハワード(1895-1955、丸坊主)。カーリーが死んで、途中からジョー・デリータに変わった。

   昭和30年代、トリオ漫才の全盛期だった。かしまし娘(庄司歌江、照枝、花江)の「うちら陽気なかしまし娘、誰が言ったか知らないが、女三人寄ったら、かしましいとは愉快だね」という明るい歌声がラヂオから聞えたのは昭和32年のことだった。フラワーショウ(ぼたん、ばら、あやめ、昭和36年結成)、ちゃっきり娘(昭和39年結成)、ジョウサンズなど関西では女性の音曲トリオ漫才も華やかだった。

   テレビが一般家庭にも普及しだしたころ、脱線トリオ(由利徹、南利明、八波むと志)が爆発的人気者だった。脱線に対抗して、転覆ということで「てんぷくトリオ」(三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗)、「トリオ・ザ・パンチ」(内藤陳、井波健、栗実)、「ナンセンス・トリオ」(江口章、岸野猛、前田隣)、「トリオスカイライン」(小島三児、原田健二、東八郎)など続々誕生した。関西でも「漫画トリオ」(横山ノック、フック、パンチ)、「タイヘイトリオ」(夢路、糸路、洋児)、「宮川左近ショー」、「レッゴー三匹」(正児、じゅん、長作)などトリオ漫才は盛んであった。

    映画界でトリオの黄金比率を発見した監督といえば、東宝の杉江敏男であろう。杉江は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ、の三人娘シリーズで大ヒットを連発した。「ジャンケン娘」「ロマンス娘」「大当り三人娘」である。つづいて杉江は、団令子、重山規子、中島そのみ、で「銀座のお姐ちゃん」「大学のお姐ちゃん」などで社会現象にもなる流行語や新風俗を生み出した。団令子の「アンパンのへそ」というキャッチ・コピーは傑作であるし、お姐ちゃんが若くてハンサムな青年に「あんたMMKね」と言ってからかうMMK(もてて、もてて、困るでしょ、という意味)は当時の女性が使用していた。実際にケペルも若手頃、職場の年上の女性から言われたことがある。このいわゆる「お姐ちゃんシリーズ」の骨格は加山雄三の「若大将シリーズ」に継承されていく。大学の若大将・田沼雄一(加山雄三)、対象的なドラ息子・青大将(田中邦衛)、美人のすみちゃん・澄子(星由里子)と、やっぱりトリオ映画だ。TV時代劇では五社英雄の「三匹の侍」(丹波哲郎、平幹二郎、長門勇)が人気を博した。音楽ではスリー・グレーセス、ベニ・シスターズ、スリー・キャッツなど。

   近年の洋画ヒット作品をみても、「ハリー・ポッター」「パイレーツ・オブ・カビリアン」「シュレック」など三人組であることに気づく。トリオは不滅の黄金比率である。

山本富士子

Pn2013041801001787___ci0003   1950年のこの日、第1回ミス日本に山本富士子が選ばれた。当時18歳で身長159.1㎝、体重59.5㎏(写真中央)。3年後に大映入りし、「夜の河」などで好演し名実共にスター女優となった。だが、役柄を広げるため希望した他社出演が俳優の引き抜き防止のために結ばれた五社協定にひっかかり映画界から締め出され、「憂愁平野」(1963)を最後に彼女の美しさを2度とスクリーンで見ることはなくなった。最近の美人の基準には容貌だけの美しさでなく、スタイルが美人の条件に加わっている。そうするとモデルのような長身の女性が選出されることが多く、顔はイマイチということもある。そこで「世界で最も美しい顔100人」が注目されている。日本からは石原さとみ、佐々木希、桐谷美玲、島崎遥香などが毎年のように選出されている。(4月22日)

松平外記忠寛

  1823年4月22日、江戸城中で西の丸書院番、松平忠寛(1791-1823)は本多伊織ら3人を斬り、2人負傷させた。いわゆる「千代田の刃傷」事件である。忠寛はその場で自害した。33歳であった。当時、旗本の風紀は乱れていたが、この事件によって風紀は引き締まったといわれる。

2016年4月20日 (水)

夏目漱石「こころ」

    1914年のこの日、夏目漱石の「心 先生の遺書」(後に『こころ』に改題)が朝日新聞に連載を開始する。

  私は暑中休暇に鎌倉へ行って、そこの海岸で先生を知った。はじめ白い皮膚の西洋人といっしょだった先生を、私は好奇心で見守っていた。幾日か海でいっしょに泳ぐうちに、先生と懇意になることができた。東京へ帰ってから先生の宅を訪ねた。奥さんから、先生が雑司ヶ谷の墓地へ行っていると教えられ、私も墓地へ行った。先生は毎月その日に友人の墓参をする習慣だったのだ。それから、私はしばしば先生の宅へ行くようになった。はたで見ているかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦であった。二人で音楽会や芝居に行き、ときには箱根や日光へ1週間ぐらいの旅行をする。私は二人の結婚の奥に、はなやかなロマンスの存在さえ仮定していた。しかし先生は、恋は「罪悪だから気をつけないといけない」と言った。私がその意味を問い返すと、先生は「雑司ヶ谷の友人の墓地へ私がなぜ毎月参るのか知っていますか」と逆に質問してきて私を混乱させた。それ以上の説明を先生から聞くことはできなかった。先生が珍しく会合に出かけた夜、私は頼まれて奥さんと留守番をした。奥さんは、先生がだんだん人の顔を見るのも嫌いになり、会にもめったに出ないと嘆いた。奥さんの解釈では、世間を嫌い人間を嫌う先生は、その人間の一人として奥さんをも嫌っている、という。それでいて奥さんは、先生が奥さんと離れれば不幸になるだけだ、ということをはっきり理解していた。

Photo_10     私の父が病気になった。東京を離れて、しばらく国へ帰った。病気が小康を得たので、私はまた学校へもどり、卒業論文にとりかかった。そのころ先生は、私に家の財産をはっきりしておくほうがよい、と言った。親戚や兄弟がいくらよい人間でも「いざという間際に、急に悪人に変はるんだから恐ろしいのです」、先生の口調は苦々しげであった。大学を卒業して私は国に帰った。父の病状はあまり変わっていなかった。父は赤飯を炊いて、卒業披露の客を呼ぶと言った。私は仰々しいのが嫌いだったが、学問をさせると人間が理屈っぽくなるという父の一言で、反対するのをやめた。その言葉のなかに、父の私に対する一切の不平があるように思えたから。しかし、招待の日が来ないうちに明治天皇の御病気が報じられた。披露は自然と沙汰止みになった。

 

   そのころ、父と母とが私の仕事に大きな期待をもっていることがわかった。母は、私の尊敬している先生がいずれは仕事の口を捜してくれるものと決めこんでいた。それでもどうにか私が東京へ出て仕事が見つかるまで、学資を送ることを約束してくれた。しかし、私が上京する間際に、父は風呂場で倒れた。九州の兄を呼び返した。妹の夫も駆けつけてきた。新聞は乃木大将の死を報じた。先生から会いたいという電報がきたが、私は父の病気が急変したので上京できない由を知らせた。父の病気はさらに進んだ。「乃木大将に済まない、私もすぐ御後から」とうわごとを言うようになった。そんなとき、小包のように分厚い封書が届いた。それは先生の遺書だった。「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此の世には居ないでせう」という一節が目にしみた。私は母や兄にも断らず、停車場へ急ぎ、東京行きの汽車に飛び乗った。ごうごう鳴る三等列車のなかで、私は先生の遺書を取り出して、はじめから終わりまで目を通した。「上・先生と私」「中・両親と私」と書き継がれた「こころ」は、ここで最後の章である「下・先生と遺書」に移る。私がそれまで見てきた先生なる一人の思想家のいわば精神の生い立ちが、その遺書によって解明されるのだが、そこには人間の性格に根強くはびこるエゴイズムを追求し、やがて晩年に「則天去私」の境地にたどりつく漱石の、創作活動の全契機が示されている。先生はその財産を叔父に奪われた。信頼していた叔父が、父の遺産を手にするや善人から悪人に一変した。先生はその衝撃で人間への信頼を失うが、自分だけはそんな人間ではないと信じていた。ところがその自分も、自分を信頼しきっていた友人Kを裏切ることによって、いまの奥さんと結婚することに成功した。Kは自殺をとげた。その結果からいえば、叔父がやったことよりも自分のやったことのほうがひどい。先生は、他人を呪い嫌った自分自身を同様に呪い嫌った。それはまた償いきれない罪の自覚でもあった。その苦しみに悩みぬいたあげく、乃木大将の殉死に触発されて、先生は自殺を決行する。それはまた、天皇に始まって天皇に終わった明治の精神の最も強い影響を受けた先生にとって、一つの殉死でもあった。そして「こころ」で自我否定の道を切り開いた漱石は、のちに「道草」において、自己の我を捨てさり、「則天去私」の新しい境地へ踏み入ることになったのである。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)4月20日

 

 

大空の英雄を殴った小説の神様

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 「わか鳥」号

    第一次世界大戦における撃墜王といえばドイツのマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892-1918)である。彼は愛機フォッカーDr.1を赤く塗っていたからもわかるように自信家であったが、その騎士道的プライドの高さから「レッド・バロン(赤い男爵)」と呼ばれていた。

    複葉機による航空戦の華やかりし時代に、日本人として第一次世界大戦に勇戦した男爵「バロン滋野」がいた。本名は滋野清武(1882-1924)。フランスの飛行学校で飛行術を学び、大正元年に徳川好敏に次いで日本人で2番目に、万国飛行免状(アエロ・クラブ)を取得した。その年8月、明治天皇の病状が悪化したため、愛機「和香鳥号」(若くして亡くなった妻・清岡和香子に因む)と共に帰国。大正2年には実演飛行を何度か行い大いに注目を集め、同年4月20日、日本で45分間の飛行中に高度300mの記録を樹立した。大正3年4月、航空機材買付けのためにフランスへ戻るが、第一次世界大戦が勃発。そこで彼はフランス陸軍に志願し連合軍の一員として活躍、レジオン・ドヌール勲章、クロワ・ビーゲール勲章を受ける。やがて美しい未亡人ジャーヌに出会い、大正6年に結婚。大正9年に帰国するが、大正13年には43歳の若さで亡くなっている。

   ところで学習院初等科時代、滋野は、志賀直哉、有島壬生馬、松方義輔から集団暴行をうけたことがある。志賀の「人を殴った話」によると、「Sの父は日清戦争の時の陸軍中将で、男爵になった人だが、もう亡くなっていて、Sが男爵をついでいた。陰性なたちで、皆が運動場で騒でいるような場合にも、仲間と小使部屋で、密かに煙草を喫っているというような子供だった。痩せて、ヒョロヒョロと高く、無表情の青白い顔には何か傲慢な感じがあった」とある。東京直下地震があった明治27年の話で、12歳の事件である。「Sを殴って、しばらく経った或日、放課後、私は四谷見附に近い門から出るつもりで屋根だけで側面のない廊下を来ると、不意にクラクラと何か一寸分らないショックを頭に感じた。背後から石をぶつけられたのだ。Sが逃げて行く。私は本の包みを其所へほり出して、直ぐ追いかけた。(略)私は学生の椅子に乗り、Sの頭を両腕でぐいと力一ぱいに抱きしめた。急にSは声を挙げて泣き出した。(略)Sは私に復讐をしたつもりだったが、直ぐ又、その仕返しをしたわけである。(略)Sは欧州の第一次大戦当時フランスにいて、飛行将校として戦争に参加し、勲章などを貰い、フランス人の細君を連れ、飛行機を持って、日本に帰って来た。帰ってから何か飛行機関係の仕事をしていたように思ふ。婦人雑誌に混血の赤児を中に細君と写した写真が出ていた事がある。そして間もなくSは胸の病気で亡くなった。今頃になって、如何にも孤独だったSに対し、気の毒な気もするのだが、然し、兎に角、妙に人に好かれぬ男だった」と結んでいる。快と不快、好悪の感情が激しい志賀直哉の一面を知るエピソードである。

2016年4月19日 (火)

メトロポリタン美術館

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2016年4月18日 (月)

斎藤実内閣と帝人事件

   第30代内閣総理大臣・斎藤実(1858-1936)は五・一五事件のあとをうけて昭和7年5月26日、組閣した。満州国承認、国際連盟脱退、農村救済事業などによって非常時の鎮静化をはかったが、昭和9年7月3日、帝人事件によって辞職した。斎藤は軍人出身だが、穏健的色彩の政治家で、軍部急進派から親英米派重臣と目され、二・二六事件で暗殺される。

   株売買が問われた疑獄事件、帝人事件とは何か。台湾銀行は昭和恐慌で倒産した鈴木商店から担保流れとして帝国人絹株式会社の株式過半数を所有していたが、この株の値上がりを見越した鈴木商店の大番頭金子直吉らはこの株の買受けをはかり、時の斎藤内閣のバックたる番町会(財界の中心人物郷誠之助を囲む若手財界人の会)の人々に斡旋を依頼した。しかし買受価格の問題をめぐって仲間割れがおこり、これに失敗した人々が買受けのうちに贈収賄の事実ありと攻撃した。昭和9年4月18日、帝人社長の高木復亨が、帝人株売買の背任・贈賄の容疑で逮捕された。高木の自供から、株を買い取った番町会の長崎英造、河合良成、小林中、永野護らも、背任・贈賄の容疑で逮捕された。さらに5月に入ると、大蔵次官黒田英雄、同省銀行局長大久保偵次らが、株売買を仲介した際の収賄の容疑で逮捕された。これより先、中島久万吉商相、鳩山一郎文相ら閣僚が辞職しており、斎藤内閣は、大蔵省高官の逮捕により、7月3日、総辞職した。しかしこの後も、中島久万吉前商相が収賄の容疑で、三土忠造前鉄道相が偽証の容疑で逮捕されて、帝人株売買による逮捕者は17人に達した。被告は予審では自白し、公判では取調検事の拷問による人権蹂躙があったと容疑を一斉に否認した。公判は4年余、265日にわたったが、昭和12年東京地裁は、正当な株売買として全員に無罪判決を下した。帝人事件は司法部内の平沼騏一郎を中心とする右翼の倒閣のための陰謀といわれている。

2016年4月17日 (日)

アンブロジアーナ図書館

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   ミラノの枢機卿フェデリコ・ボッローメオ(1564-1631)によって1607年に設立された。公開の図書館としては、オックスフォード大学ボドリーアン図書館(1602年公開)、ローマ・アンジェリカ図書館(1604年公開)に次いで、西洋史上3番目といわれる。所蔵資料はギリシア・ラテンの古典からキリスト教文献・神学から哲学、法言語学から音楽言語学と幅広い。ダ・ヴィンチの「アトランティコ手稿」も所蔵する。Biblioteca Pinacoteca Accademia Ambrosiana

2016年4月15日 (金)

アリストパネスかアリストファネスか、表記の揺れの話

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   ドイツの文豪ゲーテが我が国に紹介されたとき、「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類もあったという。斎藤緑雨は「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と川柳で諷刺した。外国人名の表記は難しいものである。

    Remy Charlipという絵本のイラストレーターがいる。日本でも翻訳書がたくさんある。岩波書店、福音館、偕成社、それぞれで、R・シャーリップ、レミイ・チャーリップ、レミ・チャーリップと異なる。外国人名のカナ表記がバラバラになり、どれが正しいのかわからない。このようなことを「表記のゆれ」という。最近のコンピューターは賢くて、どれを検索しても統一典拠があってヒットする仕組みになっているらしい。むかしの目録カードの時代は参照カードをつくらなければならなかった。いっそのこと原綴から検索する方法が合理的であるが、公共図書館では市民にそれを望むことは無理である。Shakespeareとアルファベットを正しく入力できるだろうか。

 「デカメロン」のボッカチオは最近の表記は「ボッカッチョ」である。「青い鳥」のメーテルリンクにはメーテルランクという表記がある。「オズの魔法使い」で有名なライマン・フランク・バウムもいつまでも統一されない1人だ。バウム(集英社)、バーム(講談社)、ボーム(早川書房)。wikiではボーム。古代ギリシア喜劇詩人アリストファネスかアリストパネスか。同じ岩波文庫でも異なる。「鳥」(アリストパネス)、「アカルナイの人々」(アリストファーネス)、「女の議会」(アリストパーネス)、広辞苑は「アリストファネス」、wikiでは「アリストパネス」だ。イタリアの博物学者ユリシーズ・アルドロバンダス(1522-1605)をwikiで検索したが見つからない。「ウリッセ・アルドロヴァンディ」だった。やはり統一することは難しい。

ゴーマン美智子

Tky200811060167  1974年月のこの日、ボストンマラソンで優勝したゴーマン美智子は当時すでに38歳だった。

    この快挙があった数年前の話である。トップランナーのジャクリーン・ハンセンは冷たくいった。「あなたがマラソン?死にたいの?私についてくるなんて無謀よ、You can't 」だが美智子は諦めず練習を重ねた。1973年の初マラソンでハンセンに勝った。翌年のボストンで優勝し、世界のマラソンの女王になった。(4月15日)

2016年4月14日 (木)

図書館お引越し物語

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    国立国会図書館の関西館が開館してもう13年になるが、いまだ一度も訪問していない。なにせ不便なところにある。京都府相楽郡精神華町、JR学研都市線祝園駅からバスで10分。近所の人に「国立国会図書館関西館へ行ったことがあるか?」と聞いても、10人が10人とも行っていないと答える。建物を写真でみると巨大な倉庫という感じだ。資料の多くは東京本館から移管したものだろう。約320万冊の資料を550kmの距離を移動したのだから、我が国図書館史上最大のお引越しだろう。

   図書館の引越しは大変である。数万冊ある図書を運搬するのには経費もかかる。しかしわずか24年の間で6回も移転した図書館がある。茨木市にある映像・現代美術・デザインなどの専門図書館である「大阪国際メディア図書館」である。畑祥雄と中川繁夫の蔵書寄託を基盤に1992年に写真図書館として大阪市内のマンションの一室に開設された。1994年に大阪・中津の教文研ビルに移転。1996年に「写真図書館・メディアテック」と改称し2度目の移転。1997年大阪南港WTCに移転。2001年吹田市に4度目の移転。「彩都メディア図書館」と改称。2009年宝塚市アピア3に移転。「宝塚メディア図書館」と改称。2015年茨木市に移転。通算6度目の引っ越しとなる。写真集や展覧会カタログ、評論集、雑誌など約3万3000冊を所蔵している。大型本が多いので運搬が大変だっただろう。

久保惣記念美術館

   久保惣太郎(1926-1984)が、和泉市に寄付し、1982年に市立美術館として開館した。東洋古美術を中心とした美術品と、考古学・宗教・文化などに関わる図書資料6万 7000冊を所蔵する。中国古代史の権威である貝塚茂樹の旧蔵書3万5000冊も含まれる。東洋美術を中心としてこれだけの規模を誇るところは貴重である。

文庫活動七年

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    「本を読む楽しみをすべての人に」という願いで家庭文庫を始めて7年目。文庫活動には喜びや楽しみがありますが、運営にはそれなりの苦労があるのも事実です。一番頭の痛いのは、資料の収集の問題です。やはり、興味のある新しい本が資金の関係で十分に揃えられないことです。しかし、文庫の場合はそうむずかしく考えなくてもいいのではないかと思っています。ぼちぼち集めていこうと。ちょっと極端な言い方かもしれませんが、最低三つの条件さえあれば活動できると思っています。つまり「本」と「場所」と「人」。本は約一万冊あります。子供の絵本や童話から大人の小説や一般書、なかには哲学書や学術的な専門書もあります。美術書や洋書も多いです。場所は市役所周辺の幹線道路沿いで隣に大型スーパーや病院があります。人は老夫婦でやっていますが図書館経験があります。施設も文庫専用に設計したものです。お近くの人は一度ご覧ください。「女性の書斎・ひとり好き」です。平日は女性専用ですが、土・日曜は男性も入館できます。関西テレビ「よ~いドン」でも紹介していただきました。また最近は毎週火曜日には書道教室もここで開かれています。でも文庫活動7年はまだまだです。

Photo   1960年代から80年代、全国各地に家庭文庫、子ども文庫、地域文庫など急速に増えてきましたが、90年代になると、子ども文庫に来る子どもが減り、文庫数も減少していきます。現在全国に子ども文庫が何ヶ所あるのか現状を把握していません。ネットで豊中に地域文庫「そよ風文庫」(上口佐知子代表)というのがあることが分かりました。毎週水曜日、午後2時から4時30分まで、本町会館(豊中市本町5-8-51、阪急豊中駅から東へ約520m)で絵本や児童書の貸し出しをしています。また、毎週1週目は手作り遊び、2週目はおはなし会をしています。昭和48年6月に安達みのりさんが開設したもので、36年間も活動しています。最近、これまでの活動をまとめた記録誌「本があって人がいて」を発行しています。
(参考文献:汐崎順子「日本における文庫活動の現状」、近畿子どもの本連絡会「近畿地区子ども文庫実態調査一覧表」1976)

タイムカプセルの語源

G_e_pendray タイムカプセルとは、現代の文化・生活の記録を特殊金属製の容器に入れて地下に埋め、後世の人々のために現代人の遺産としようとするものである。現代文明を未来に残そうとする発想は、1876年のフィラデルフィア万国博覧会で既に現れており、「センチュリー・セーフ(世紀の金庫)」と名付けられたタイムカプセルが100年後に開かれる予定で用意された。1936年にはオグルソープ大学の学長ソーンウェル・ジェイコブスは「文明の地下室」と呼ばれる小さな地下室を学内ホールに作った。また1938年のニューヨーク万国博でつくられ、特殊合金の容器に種々の日用品その他を入れて地下深く埋められた。開封は埋設から5001年後の6939年に設定された。当初、名称は「時限爆弾」と名付けられたが、世界中で軍事的緊張が高まりつつあめため、名称が不適切とされ、広報担当のエドワード・ペンドレー(画像)の発案により「タイムカプセル」という言葉が初めて使われた。time capsule  参考:「モニュメントの20世紀」 坂口英伸 吉川弘文館 2015

印刷写真術のパイオニア大鳥圭介

Photo_9  大鳥圭介(1833-1911)。天保4年4月14日、播州赤穂細念村小字石戸(現・赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医者・小林直輔の子として生まれた。幼名慶太郎。14歳で閑谷学校で漢学を学び、適塾で蘭学を修め、さらに江戸にでて坪井忠益塾に入る。江川太郎左衛門塾で砲術を学ぶ。中浜万次郎に英語を習う。慶応2年、幕臣となり、開成所洋学教授、フランス式の歩兵訓練にあたった。江戸開城に際し、江戸を脱出、会津から箱館まで逃れ、五稜郭で榎本武揚、土方歳三、荒井郁之助らと新政府軍に抵抗した。土方を除いて幕府軍は洋学の知識の豊富な人材が多い。榎本は地質学・化学・物理学、荒井は数学・気象学。そして大鳥も多彩な分野の研究者である。とくに現在知られるのは印刷と写真の分野での近代のパイオニアとして注目されている。

   活版印刷といえば本木昌造が知られるが、日本で初めて鋳造活字をもちいて印刷、出版したのは大鳥という。大鳥活字といわれる。万延元年(1869年)に「築城典型」、文久元年(1861年)に「砲科新論」などの西洋兵学の翻訳書を活版で印刷した。写真においては上野俊之丞(1800-1877)、島霞谷(1827-1870)、三代目木村嘉平(1823-1885)らに僅かに遅れるものの、写真術の草分けである。薩摩藩主・島津斉彬の娘天彰院篤姫の嫁入りの際、写真術の指導を薩摩藩士に伝授したという。その才能は明治政府で遺憾なく発揮し、明治44年、枢密院顧問として79歳で波瀾に満ちた生涯を閉じたのである。

2016年4月13日 (水)

東北の小さな美術館

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本屋大賞

   全国の書店員が選ぶ「本屋大賞」というのがある。今年は宮下奈都の「羊と鋼の森」が受賞した。受賞作はピアノの調律師をめざす17歳の青年の話し。

   近ごろ、街の小さな書店はほとんど見かけなくなった。都心の大書店にはいつも大勢の人がいるが、小さな書店はあまり活気がない。リアル本屋は斜陽産業なのである。1999年には2万2296店であった本屋は、2015年は13488店、つまりこの16年間で、8798店以上も減った。原因としては、ネット書店の普及、若者が本を読まなくなった、長びく不況と低所得、図書館の利用、などの理由が考えられる。身近にある本屋が減ることで、社会や暮しがどのように変わっていくのだろうか。地方書店が減ることは当然、出版業界にも悪影響を及ぼす。優秀な人材は出版界に就職しなくなる。良書を出版していた零細出版社は倒産する。芥川賞、直木賞、村上春樹の小説なとがいかに売れようが、出版の多様性を失うことで、日本の言論は大きく低下し、民主主義はさらに失速する、という悪循環がおこる。やはり地方の本屋を育てていかなければならない。

石川啄木とその妻節子

Img_1508312_59112561_0   石川啄木(1886-1912)と堀合節子(旧姓金矢)が出会ったのは、明治32年の頃といわれ、共に満13歳のときだった。啄木は盛岡中学2年生。節子も縞木綿の着物に、紫の袴を胸高にはいて、私立盛岡女子校に通う2年生だった。節子と同級生だった和久井のぶ子の記憶によると、節子は4年の2学期ころから、学校を休んで啄木の下宿へ行き、短歌を教わっているという評判がたった。彼女は夜など、和久井のぶ子の家へ勉強しにいくと称して教科書を持って家を出て、その実、啄木の下宿へ行って詩や音楽のことを語り合っていたらしい。啄木の友人の佐藤善助によると、そのときすでに二人の関係は精神的なものをこえて、肉体によって結ばれているように見えたという。

   啄木の中学生時代に芽生えた堀合節子との恋は、その後大人たちの知るところとなり、二人は引き裂かれた。もと士族であり、岩手郡役所に勤務していた節子の父堀合忠操は激怒した。しかし忠操の姉がとりなして、節子は思いつめているから、許さなければ自殺するかもしれないと脅かして、忠操の怒りをやわらげ、二人の仲はいちおう認められた。明治37年2月3日、啄木の老母は盛岡の堀合忠操の家を訪問して、啄木と節子の縁談を正式に決定した。当時の啄木は中学を退学して、文学で身を立てようと考え、婚約してまもなく上京して詩集「あこがれ」を出版した。一部からは天才詩人との評判を得たが、残本多くあてにしていた印税も入らず、上京中の啄木のもとに、結婚式の日取りの知らせがあり、啄木は盛岡へ行くため汽車に飛び乗った。しかし途中、土井晩翠をたずねて15円おくられたりしたが、結局、盛岡へは予定していた結婚式の日になっても帰らなかった。やむなく婿のいない結婚式を挙げたが、啄木の友人たちは啄木の行状を怪しみ、節子に結婚を思いとどまるように話した。それに対して節子は、手紙に、

「吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候。」とある。

    啄木は6月4日に、節子が待つ盛岡市帷子小路8番戸の新居に姿を現わした。啄木は明治45年4月13日、死去。そして、節子も啄木の死去した1年後の大正2年5月5日に死去する。ともに26歳の短い生涯だった。

2016年4月12日 (火)

「ゴリ押し」の語源

Img_581968_9104282_01_3   「ごり押し」とは理に合わない事を承知でその考えをおし通すこと。語源はハゼ科の鮴(ごり)という魚の漁獲法である「ごり押し漁」が由来とされている。その方法とは、まず筵を3枚継いで、浅瀬に伏せ、小石をたくさん置いて、一方の筵の両端を2人で持ち上げる。そして、もう1人が川下から長さ3尺ぐらいの撞木で、川底をすりながら追い登っていく。ゴリが追われて、筵の上の小石に隠れようとするのを、筵と一緒に捕まえてしまう。ようするに、ゴリを無理矢理追い立てて捕獲する漁を、ごり押しといったものらしい。画像はブログ「歴史散歩とサイエンス」2012年記事からの引用です。

2016年4月10日 (日)

北摂の池

   豊中市周辺を散策していると池が多いことに気付く。豊中市は、神崎川を境にして南に大阪市を控え、東に箕面市・池田市と接し、西に伊丹市・尼崎市と接している。北摂周辺は雨が少なく、江戸時代、土地の高いところでは溜池を作って稲作に必要な水を確保する必要があったからである。現在みられる多くの池は溜池のなごりを残しているのである。豊中市内だけでも、北から順にあげると、樫ノ木池、安場池、長谷池、清谷池、新池、ホーキ池、梨谷池、梨谷下池、羽鷹上池、羽鷹下池、中山池、上山池、乳母谷池、尾池、金取池、山所池、蛍池、箕輪池、衛門前池、三ッ池、青池、豊州池、新池、二ノ切池、打越池、鶴田池、久保池、梶池、うつわ池、山ノ池、新宮池、菰ヶ池、中池、山の池、芦田ヶ池など。

土屋逵直(つちやみちなお)

   元禄15年、赤穂浪士が討ち入った本所松阪町にある吉良邸の北側に隣接していたのは、東側が福井藩本多家江戸屋敷で、西側が旗本の土屋主税邸である。土屋主税は正しくは、土屋逵直という名で、高提灯を掲げた人物として講談や映画の忠臣蔵で有名になっている。土屋逵直は吉良家に加勢せず、逆に塀に沿って灯りを掲げ、その下には射手を待たせ、塀を越えてくる者があれば誰であろうと射て落ちとせと命じたとある。

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2016年4月 9日 (土)

中陰飾り

Img_naka02   連続テレビ小説「とと姉ちゃん」。父竹蔵が亡くなった。祭壇には白木の位牌や胴骨箱が祀られている。長女の常子は父との約束を守り、泣かずに母や妹たちの面倒を健気にやっている。そして月日は四年が経ち、昭和10年4月。ドラマは来週からヒロイン高畑充希へとバントされた。

2016年4月 8日 (金)

オイカワ魚名論争

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淡水産の小魚オイカワは釣り人の最も好む魚種の一つである。東京ではヤマベまたはハヤ、栃木の一部ではアカバラ、関西ではハス、ハイ、ハエなど呼名が多い。和名オイカワの語源には古来から論争がある。①河で、魚を追い上げて漁をすることから「追河」となった(広辞苑)②水中でお互いに尾を追いて闘うことから「追川」となった(大言海)③和漢三才図会には「この魚、京洛の大堰川に多し。京にて俗に「オイカワ」という。大堰川は嵐山付近の川をいう。大堰川説が最も有力である。

アノミア「LAKE」

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 イングランド北西部には湖水地方として美しい風景の丘陵地帯が広がる。「森と湖の国フィンランド」は湖沼面積が国土面積の17%を占めている。みずうみはフィンランド語で、jarvi ヤルヴィ。

  「みずうみ」のアノミア(失名辞)

琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖、猪苗代湖、中海、宍道湖、屈斜路湖、支笏湖、洞爺湖、浜名湖、小川原湖、十和田湖、北湖、田沢湖、印旛沼、摩周湖、諏訪湖、檜原湖、山中湖、池田湖、児島湾淡水湖.阿寒湖、中禅寺湖、池田湖、クッチャロ湖、熊取湖、風蓮湖、厚岸湖、青木湖

世界のおもな湖
カスピ海、スペリオル湖、ヴィ久トリオ湖、ヒューロン湖、ミシガン湖、タンガニーカ湖、バイカル湖、グレート・ベア湖、グレート・スレーヴ湖、エリ―湖、ウィニペグ湖、マラウイ湖、オンタリオ湖、ラドガ湖、マラカイボ湖、パトス湖、オネガ湖、トゥルカナ湖、ティティカカ湖、ニカラグア湖、ハンカ湖、プラシッド湖、アイセル湖

 

 

 

 

 

 

 

 

朝鮮族のブランコ乗り

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    大きなブランコ乗りは朝鮮族の良家(両班)の娘たちの伝統的な遊戯である。その歴史は古く朝鮮王朝以前の高麗時代にさかのぼる。「春香伝」には試験を控えた夢龍が春の野の中でクネ(鞦韆)を漕いでいる一人の美しい女性、春香を見て恋に落ちる場面がある。夢龍ならずとも華やかなチマの裳裾が風にふわりふわりとふくらみひるがえる様子には胸ときめかす風情があろう。朝鮮では、旧暦4月8日から5月5日までの期間、女性が特設の長いブランコを楽しむ風習(クネトゥィギ)がある。大きな木の枝に縄を張り、足板を付けて作る。縄の長さは相当に長い。村の広場などで、どこまで高く漕げるか、女性たちは競技をしていたという。

    日本でもブランコは「由佐波利」(ゆさはり)とか漢語で「鞦韆」とも呼ばれ古くからあった。しかしブランコは子どもが楽しむもので朝鮮のような長いブランコはなかった。語源はポルトガル語balanco からとの説、その形から「ブラリ」「ブラン」から由来する説などあるが明らかでない。

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2016年4月 7日 (木)

メキシコの人口問題

    日本とメキシコの人口は、ほぼ同じで若干日本のほうが多い。メキシコ1億2233万人(2013年)、日本1億2730万人(2013年5月1日推定)

    やがて人口総数では日本がメキシコに抜かれる。人口構成のグラフをみると、日本が壷型なのに対して、メキシコは20歳以下が多く、ピラミッド型である。メキシコの人口は、20世紀初頭から死亡率が低下し始め、出生率は高水準を続けたため、人口増加の一途を辿っている。しかも農村から都市への人口移動が激化し、都市人口割合は1970年代初頭には6割に達し、大都市周辺のスラム問題が深刻化している。カトリックの国柄もあって、東アジア諸国のような強力な人口政策を推進していない。

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  メキシコ 2010年

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  日本 2010年

愛馬の日

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   日清・日露の戦争で我が国の馬が小さくて軍馬として役立たなかったことを心配された明治天皇が1904年のこの日に「日本の馬を改良して立派な馬になるように計画せよ」と御沙汰されたのにちなんで、1939年にこの日が「愛馬の日」と制定された。戦後は軍事と関係が深いとして扱われなくなった。現在の「愛馬の日」は日本中央競馬会・馬事公苑が、馬に親しんでもらう日として「秋分の日」を充てて実施している。現在、4月7日は「戦没馬慰霊祭の日」と変更されている。(4月7日)

2016年4月 6日 (水)

読めない漢字「繧繝」

Ungensihou1 繧繝(うんげん)

   連続する菱文に筋を添えた、繧繝錦の畳のへりの文様。最も格の高い畳縁で、天皇、三宮(皇后・皇太后・太皇太后)、上皇などに用いられる。

羇縶(きちゅう)

  馬の頭の飾りのひもと、たづな。旅の支度。

輸贏(ゆえい)

  勝ち負け。勝敗。贏は勝つ。

顛躓(てんち)

   くつがえりつまずく。

楞伽経(りょうがきょう)

  釈迦がスリランカで説いたとされる経典の一つ。

赤毛のアンとアイスクリーム

   モンゴメリーの「赤毛のアン」の一節。

   「来週、日曜学校のピクニックがあるの。リンドおばさんがアイスクリームをこしらえてくれるんですって。考えてもみてよ!アイスクリームよ!ねぇ、マリラ、わたし行っていい?」「アイスクリームって食べたことないの、どんな味かってダイアナが説明しようとしたけど、アイスクリームだけはわたしの想像をおよばないらしいわ」この物語の時代は、モンゴメリが小学生だった1880年代の頃、グリーンゲイブルズではまだアイスクリームは特別な食べ物だったようです。

    アンが生れて初めて食べたアイスクリームは市販のものではなく、手作り。新鮮な牛乳、卵、砂糖、バニラ、小麦粉などを入れて作る。言葉にできないほどおいしいものだ。

    日本でも高村光太郎と智恵子が日比谷松本楼でアイスクリームを食べたという話があるが、大正時代のこと。

太ったナターシャ

   「戦争と平和」のナターシャといえば、健康で活動的な美しい娘、オードリー・ヘプバーンのように細い体をイメージする。トルストイの「戦争と平和」を読んだのは14歳の頃で、旺文社文庫の縮約版だった。晩年のナターシャについて次のような翻訳がされている。「結婚後のナターシャの姿は社交界ではあまり見られなかった。たまに見かけた人々も、あまり彼女には感心しなかった。愛嬌もなければ、親切でもなかったからである。ナターシャは別に孤独な生活が好きだというわけではなかったが、妊娠したり、出産したり、育児や夫の世話に夢中になっていると、社交界のほうをあきらめない限り、そうした要求を満たすことはできなかった。結婚前のナターシャを知っている人たちは、この変化を異常のことのように思っていたが、老伯爵夫人だけは、この変化が、家庭を持ちたいという要求によるものであることを知っていたので、別にこれを不思議とは思わなかった。」これは原文をかなり縮訳しているようで、藤沼貴の訳では次のようにある。「彼女は太り、横幅が広くなってしまったので、このたくましい母親が、昔は細い、敏捷なナターシャだった、と見て取るのは難しいほどだった。」とある。ナターシャとピエールは1813年に結婚して、1820年には4人の子供がいた。ロシア人の女性であるから、さぞかし太っていたことは想像するに難くない。映画にはそのようなシーンがないが、太ったナターシャというのは、幸せな結婚生活を意味しているわけで、大作の結末としてはとても重要な要素のひとつと考えられる。

2016年4月 5日 (火)

サッカーとフットボール

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  「soccer」という名は「association」の「soc」に「-er」を加えて簡単にした米語である。イギリスでは11世紀のはじめごろからフットボールが行なわれていたが、規則がまちまちであったので、1863年、イギリス・フットボール協会ができたときに、規則を統一した。この協会が決めた規則によるフットボールが「Association football」である。世界の多くの国ではこのスポーツを「フットボール」と呼ぶが、アメリカ人は「サッカー」と呼ぶ。

英語 football  フットボール

ドイツ語 Fubball フースバル

フランス語 football  フットボル

イタリア語 calcio   カルチョ

スペイン語 futbol  フットボル

チェコ語 fotbal  フォトバル

スウェーデン語 fotboll  フォートボール

フィンランド語 jalkapallo  ヤルカバッロ

オーロラ

Auroravillage    オーロラは、太陽で発生した太陽フレアなどで発生した電気を帯びた粒子が地球に到達し、大気中の粒子と衝突して発光する現象。北極や南極にあらわれるオーロラはさまざまな色の光がいくえにも重なり、夜空にゆれ動く虹のカーテンのように美しい光景である。オーロラはまれに低緯度でも観測されることがある。1953年から54年にかけて北海道の測候所で北西の空に淡紅色のオーロラが観測された。また地球上だけではなく、火星や木星・土星、それに天王星でも見られる。

   「オーロラ(aurora)」というのはローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する。しかし北欧においてはオーロラという言葉はあまり一般的ではない。ノルウェーゴ語やデンマーク語ではオーロラのことを「nordlys(ノーリス)」と呼ぶ。スウェーデン語でも「norrsken(ノルシェーン)」といい、どちらも「北の光」という意味である。フィンランド語だけは大きくちがって、「revontulia(レヴォントゥリア)」という。

一視同仁

   朝ドラ「あさが来た」全156話の平均視聴率が23.5%と大好評だった。ヒロイン波瑠は4月からの日本テレビ連ドラ「世界一難しい恋」で嵐・大野智を一目惚れさせる美人OLの役に抜擢されている。長い下積みの苦労があった波瑠の座右の銘が「一視同仁」(いっしどうじん)。すべての人を、差別しないで、平等に扱うこと。視(みること)を一(おなじ)にして、仁(おもいやり)を同じにする、ということ。えこひいきしない場合にも用いる。唐の韓愈のことば。

世界の有名な海岸

   海岸の地形は、大きく砂質海岸と岩石・崖海岸の2つに分けられる。岩石海岸はリアス式海岸と呼ばれるものに代表されるように、屈曲に富んだ海岸線をもち、直接山地が海に続いている海岸であって、その中には小規模な砂質海岸が随所に見られる。

    周囲を陸地に囲まれた内海や湾で、船舶を停泊させるのに良い条件が満たされた場所は、天然の良港として、歴史的に発展を遂げてきた。アレキサンドリア、ピレウス(アテネ)、コンスタンティノープル、ジェノヴァ、香港など。

   世界の海岸で名が聞こえたものを記すと、氷河作用をうけたフィヨルドでは、ノルウェーのソグネ、ハルダンゲル、ガイランゲル・フィヨルドなど、カナダの太平洋岸ではリン・キャナルの海岸、南アメリカのパタゴニアではマジェラン海峡やビーグル・キャナルの景色が有名である。北アメリカの西海岸では、サンフランシスコの浜、南アメリカではリオ・デ・ジャネイロのコパカバーナやイパネマ海岸など美しい海岸がある。地中海の海岸ではリヴィエラやアマルフィ海岸が保養地として知られる。このほかハワイのワイキキ、タイのパッタヤー・ビーチなど。

蝸牛は英語でスネイル

Snailwa_edit02    カタツムリは、フランス語で escargot エスカルゴ。英語では、snail スネイルという。スネークは蛇。「シーキューカンバー(海のキュウリ)」と呼ばれている海の生き物はナマコ。

snake      ヘビ

crab        カニ

shrimp    小エビ

prawn    車エビ

lobster  伊勢エビ

corn barnacle フジツボ

squid     イカ

octopus  タコ

nudibranch ウミウシ

short-neck clam  アサリ

corbicula     シジミ

turban shell  サザエ

sea urchin   ウニ

sea cucumber  ナマコ

jellyfish        クラゲ

sea anemone イソギンチャク

coral             サンゴ

hydra            ヒドラ

sponge         カイメン

ascidian        ホヤ

slug              ナメクジ

bryozoan       コケムシ

flatworm        ヒラムシ

planaria          プラナリア

lugworm         ゴカイ

earthworm     ミミズ

cabbage  white  モンシロチョウ

2016年4月 4日 (月)

小泉八雲来日

Photo_2     明治23年4月4日、ラフカディオ・ハーンは朝6時に横浜港に着いた。それからすぐ人力車を雇って1日中、横浜の街を走る。一つ覚えの日本語「テラエユケ」を連発してお寺めぐりをする。ハーンが参詣した寺社はどこか、実はあまりわからないらしい。成田山不動尊、浅間社、厳島神社、本牧神社、白滝不動、青木明神、豊顕寺、慶運寺などが考えられる。何番目かに訪れた寺で、英語の堪能な青年・真鍋晃に出会う。その後、真鍋はハーンの通訳をしながら仏教文化の解説や民話・伝説の紹介をするなど有能な助手だった。昭和59年にNHKで放送された「日本の面影」では、ハーンをジョージ・チャキリス、真鍋晃を三ッ木清隆が演じていた。しかし真鍋晃という人物については、ほとんど詳しいことはわからない。その年の8月下旬にハーンは中学校英語教師の職を得て島根県松江に赴く。

2016年4月 3日 (日)

伊豆の踊子

A15   川端康成(1899-1972)の短編小説「伊豆の踊子」は雑誌「文芸時代」大正15年2月号、4月号に発表され、同年、金星堂から刊行された。松竹キネマが田中絹代(1909-1977)主演で映画化したのは、それから8年も後のことである。田中絹代はすでに23歳になっていたが、口もとに指を持っていくしぐさが可愛かった。「文芸時代」は新感覚派の文芸運動の強い雑誌で、「伊豆の踊子」は初恋物語の形を借りながら、職業差別や女性の地位の低さ、貧困など根深い当時の社会問題も原作にはみられるが、五所平之助(1902-1981)監督によって「恋の花咲く伊豆の踊子」(昭和8年)という抒情味あふれる作品となり、以後の映画化にも継承されていく。昭和8年当時、ほとんどの映画がトーキーになっていたが、わざわざサイレントで撮っている。「百舌が鳴く、天城七里の峠道」という字幕で、桃割れ姿の可憐な絹代が太鼓を背負って登場する。原作では「踊り子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった」とある。田中絹代以降、踊子かおる役には、美空ひばり(昭和12生、当時17歳)、鰐淵晴子(昭和20年生、当時15歳)、吉永小百合(昭和20年生、当時18歳)、内藤洋子(昭和24年生、当時17歳)、山口百恵(昭和34年生、当時15歳)といずれも15歳から18歳の十代のヒロインが選ばれている。「芸術新潮、平成19年2月号」特集「おそるべし!川端康成コレクション」の記事に、川端康成と内藤洋子が並んで写っている写真が掲載されている。キャプションには「骨董屋には愛想のない川端だが、美女にはこんな優しい顔も。白いワンピースの少女は当時十七歳の女優、内藤洋子」とある。伊豆の踊子の撮影前に川端康成が面会したのは、吉永小百合と内藤洋子だけではないだろうか。とくに内藤洋子主演の「伊豆の踊子」(昭和42年、恩地日出夫監督)は川端康成公認版といえる。映画には短編「温泉宿」の挿話も含まれている。

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   ところで「伊豆の踊子」は6本の映画化作品のほか、テレビドラマとして5作品がある。かおる役には、小林千登勢、栗田ひろみ、小田茜、早瀬美里、後藤真希が演じている。昭和36年にはNHKは「連続テレビ小説」と銘打った小林千登勢「伊豆の踊子」を夜に放送した。この作品の成功により、4月3日から朝の時間帯に「娘と私」がスタートしたという。

   「伊豆の踊子」薫は女優の登竜門であるが、映画では昭和49年の山口百恵、ドラマでは平成14年の後藤真希を最後に登場していない。いま旬の10代女優のなかで、薫にふさわしいのは誰であろう。「パパとムスメの7日間」の新垣結衣(19歳)、「花ざかりの君たちへ」の堀北真希(18歳)、「山田太郎ものがたり」の多部未華子(18歳)、「天然コケッコー」の夏帆(16歳)、「受験の神様」の成海璃子(15歳)、「14歳の母」の志田未来(14歳)、「風林火山・美留姫」の菅野莉央(13歳)、「あさが来た」の小芝風花(18歳)といったところであろうか。。

2016年4月 2日 (土)

ファースト・ネームのほうが有名

   巨人の新外国人選手ギゃレット・ジョーンズ。通常外国人の登録名はファミリー・ネームとしているが、よりインパクトを与えるためファースト・ネームの「ギゃレット」を登録名としている。世界史においてもシーザー、コロンブス、クロムウェル、ダーウィン、エジソンなどファミリー・ネームで記憶している。しかし、ミケランジェロ、ガリレオ、ナポレオンなどはファースト・ネームを使用している。ミケランジェロ・ブオナローティ、ガリレオ・ガリレイ、ナポレオン・ボナパルト。エルヴィス・プレスリーの場合は、どちらもよく使用される。

2016年4月 1日 (金)

ケツァルコアトル

   広辞苑を引くと「ケツァルコアトルス」Quetzalcoatlusが載っている。中生代白亜紀に生息していた史上最大の翼竜である。推定翼開長は5mくらい。しかし、この名はアステカ神話の神「ケツァルコアトル」Quetzalcoatlに因んだものである。ゆえに広辞苑には「ケツァルコアトル」の項目や説明を載せるべきだと考える。ケツァルコアトルとは「羽毛の生えたヘビ」という意味で、アステカの学問と神官の神であった。伝説によれば、ケツァルコアトルは、海を渡って去って行ったが、また帰ってくると約束したという。モンテスマは、スペイン人の征服者コルテスのことを帰ってきた神だと信じた。

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