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2016年3月23日 (水)

軍神広瀬中佐の銅像

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   明治37年、日露戦争開戦。日本海軍はロシアの艦隊の出撃に備え旅順港封鎖作戦に出、作戦中の福井丸がロシアの魚雷を受けて沈没、杉野兵曹長が戦死した。それを知らない広瀬武夫(1868-1904)中佐は、沈みかけている船に杉野を探しに行き、海水が甲板に迫ってきてやむなく端舟に乗り移ろうとして敵弾を受けて戦死した。戦後、広瀬は軍神として祀られ各地に銅像が建てられた。数ある銅像の中でも、とくに知られたのは東京神田区須田町(現・千代田区神田須田町)、万世橋駅頭(現在の秋葉原駅近辺)にあった像であろう。周辺は人や自動車や路面電車がひっきりなしに行き交い東京でも屈指の繁華街であった。明治37年4月20日、海軍の同期・上官であった八代六郎(1860-1939)、有馬良橘(1861-1944)、財部彪(1867-1949)、小笠原長生(1867-1958)らの推薦によって「広瀬中佐銅像建設趣意書」が提出され、時事新報が寄附金を募って、明治43年3月に建設された。

    「東京銅像唱歌」の25番に「電車の乗換、いとしげき、昌平橋のそば近く、広瀬中佐は立てりけり、下には杉野兵曹長」の歌詞にあるように、台座上部に広瀬の像があり、台座の下に広瀬を見上げるように跪いた杉野の像があった。銅像の製作者は、広瀬と大分県竹田市出身の彫刻家・渡辺長男(1874-1952)が同郷の縁で広瀬の像を製作した。杉野の像は渡辺の実弟の朝倉文夫(1883-1964)が製作した。これらの像は戦犯銅像として昭和22年6月に撤去され、現存していないそうだ。杉野は何処、杉野は居ずや、銅像は何処。

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