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2016年3月 5日 (土)

江戸城無血開城の端緒を開いた男

Photo_2    山岡鉄太郎(1836-1888)は、慶応4年3月5日、徳川慶喜より恭順の意をあらわした征夷大総督府大参謀西郷隆盛に宛てた勝海舟の手紙を持参し、薩人益満休之助とともに駿府へ急行、西郷と会見する。

   朝敵となった徳川慶喜はすでに江戸城を出て上野寛永寺に移り、ひたすら恭順謝罪の姿勢をとっていた。陸軍総裁の勝海舟は、江戸決戦を唱えていきりたつ徳川の家臣をなだめつつ、官軍との連絡がつかずに苦慮していた。ここに飛び出していったのが鉄舟である。彼は、慶喜の恭順が本心から出ているものかどうか、疑っていたらしい。そこで単身、上野に慶喜を訪ね、恭順が本心であって他意はないという言質を取ったのだ。その足で海舟に会い、自分一人でも駿府に乗り込むつもりだが、何かいい策でも、と聞いてみたのだ。

   二人は初対面である。鉄舟は、尊王攘夷を唱えて暴れまわっていたころの自分の噂が海舟に知られていてはまずいと、内心では怖れていた。相手にしてくれなかったらどうするか。それも仕方なし、と思っていただろう。半分は死ぬ気ではじめたことだ。

    だが、海舟はすっかりうちとけ、鉄舟の決心を信用して、江戸攻撃は理において許されないと主張する手紙を預けたのだ。鉄舟は大任を果たした。官軍の見張っている六郷川の関所では、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る!」と宣言して突破した。薩摩人の益満がいっしょだったのも何かと都合がよかった。これは海舟の配慮である。もっとも、これですべてが解決して江戸無血開城になったわけではない。鉄舟が用意した交渉の舞台にのぼるのは西郷と海舟の、主役二人である。(引用文献:「明治維新百人」別冊太陽、平凡社、1973)

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