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2016年3月 9日 (水)

偏奇館炎上

   永井荷風(1879-1959)、本名・永井壮吉は、明治36年から41年にかけての米仏滞在経験後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表し、つねに洋服を着用したハイカラ趣味、モダンな個人主義者としてのイメージがある。しかしながら家庭環境は漢詩文化あるいは儒教の伝統に属していたことも注目すべきである。

   父は永井久一郎、母は恒子。久一郎は明治4年にアメリカに留学しその後明治政府に仕えていた。帝国図書館の前身である書籍館に勤めていたこともある。鷲津恒子は漢学者鷲津宣光の次女。荷風は「十九の秋」で次のような回想を記している。

子供の時分、わたしは父の書斎や客間の床の間に、何如璋、葉松石、王漆園などいふ清朝人の書幅の懸けられてあつたことを記憶している。父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交を訂めて居られたのである。

   つまり荷風は新旧の文化に浸る良家の出であった。中国の伝統文化はもとより、江戸趣味、ゾラ、モーパッサンなどのフランス文学に早くから親しんだ。

   斉藤ヨネ、内田八重(1880-1966)との短い結婚生活のあと、独身となった荷風は、大正9年には麻布区市兵衛町1丁目6番地の百坪の木造洋館「偏奇館」に移転した。偏奇館とはペンキ塗りの洋館だったことをもじってわたむれにつけたという。しかし、その偏奇館も昭和20年3月9日の東京大空襲で全焼。蔵書すべてを失った。「人生の至楽は読書に在り」という荷風にとって67歳にしてはじめてなめた辛酸であったであろう。

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コメント

永井荷風は幸田露伴と並ぶ奇人ですね。どちらも素晴らしく優秀だけれど、へんくつを気取っていたように思う。明治期の巨人、漱石もそうだったから、このころの男性のモダニズムは、知性を偏屈な外観に落ち着かせることだったのかもしれませんね。
「ふらんす物語」読んでみたいです^^

墨東奇潭?という映画を幾度もテレビで観ました。永井荷風の生き方に憧れる小生であります

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