印象派が描いた歓楽街の娼婦たち
夜のモンマルトルの象徴といえば、「赤い風車」の明かりであろう。ナイトクラブ、パル・デュ・ムーラン・ルージュが、酒と踊りであらゆる階層のパリっ子を魅了したのは19世紀末。クリシー大通りの「レーヌ・ブランシュ(白の女王)」という安ダンス・ホールの跡地、ブランシュ広場に、「赤い風車」(ムーラン・ルージュ)が開店したのは1889年のことであった。1891年以来、入口のロビーは絵のギャラリーとなっていた。そこでは大勢の客が酒を飲んだり、ぽんびきや娼婦、踊り子、おとりの警官などがたむろしていた。内部は、見物席に囲まれた大ダンスフロア、大きなバー、そして道化師や歌手、エキゾチィックな踊り子、アクロバット師、にぎやかなカンカン踊りの一団など、一風変わった多種多様な芸人たちが毎晩出演する舞台になっていた。
ムーラン・ルージュには、客たちが座って休むことのできる、小さなテーブルと椅子をおいた中庭があり、それを囲むように屋根つきのプロムナードが広がっていた。庭の真ん中を占めていたのはオーケストラ全員がなかに入れるほどの巨大な張りぼての象であった。これはこの年の万博でブームを呼んだチュニジア館のアトラクションにヒントを得たものである。そのまわりに客を楽しませるために猿が鎖につながれていた。また人々は、モンマルトルのバーで最もよく飲まれていた「緑の妖精」つまりアブサンと呼ばれたアニスシードの酒を飲み過ぎなければ、ロバに乗って庭を回ることもできた。官能の悦びを求める人のための標識である屋根の赤い風車は、木製の模型であり、本物の風車が数多く点在していた緑豊かな丘の村であったころのモンマルトルの、そう遠くない昔を思い起こさせた。ムーラン・ルージュを開店したシャルル・ジドレールは、クリシー街のダンス・ホール「エリゼー・モンマルトル」や「カジノ・ド・パリ」といった競争相手から常連客を呼び寄せるために、あり余るほどの娯楽を用意することにあらゆる手をつくした。
夕べの調べは、オッフェンバックとオリビエール・メトラの音楽によるサーカスなみの喧騒であり、トロンボーン、シンバル、ドラムによって大音響で演奏された。世紀の変わり目ころには、踊りの流行はマティッシュやケーキウォークのようなものになっており、バンドは聴衆を馬鹿騒ぎに駆り立てたので、外国からの客は驚いて立ち去るほどであった。ある偏見のないイギリスの雑誌記者は「ここではどのような欲情も抑える必要はない。わめき声と馬鹿騒ぎがある。女たちは男たちの肩にすがってホール中引き回されている。酒を注文するすさまじい叫び声がある」と記している。
しかし、ロシア、イギリス、ルーマニア、南アメリカなど世界中からやってくるムーラン・ルージュの男の常連客にとって一番の魅力は、小粋で性道徳にとらわれない女たちであった。性取引はパリの周辺では盛んであった。悪徳はナイトクラブや娼家だけの商売ではなかった。外国商人たちは娼婦にするパリの娘を求めた。ヨーロッパ最大の肉体市場と考えられていたムーラン・ルージュは、表面は華やかでうわついて見えたが、踊り子兼娼婦といううす汚れた仕事に携わる女は、白人奴隷市場の手配師に誘拐されてきた者が多かった。
モネやルノワールもプージヴァル近郊にある新興行楽地グルヌイエールを描いている。ここは水上カフェなのだが、女たちは金髪に染めて、胸をつきだし、尻をふくらませ、派手な衣装を着ている。グルヌイエールとは「カエル」という意味で、夜の獲物を探しにここにやってくる娼婦なのである。当時のポスターには水着の女性が描かれている。
(引用:「ロートレック」同朋舎出版、1990)
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