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2016年3月 5日 (土)

荒木村重

    荒木村重の出自と荒木家の系譜を概略する。荒木家は、藤原秀郷の流れを汲む、丹波国多紀郡の波多野氏の一族。波多野義定8代の後裔氏義(うじよし)が丹後国天田郡荒木邑に住して荒木氏を称す。村重の父義村(一説に信重)に至って摂津国池田に移り、「池田の六人衆」と称せられた。

   荒木村重は、初め池田勝正に属し、1551年、伊丹兵庫頭の先手を討ち取る功によって父から家督を譲られた。主家池田家が内紛によって衰える中、摂津三人守護の一人和田惟政を討ち取るなど力を蓄えていった。

    1573年3月、反信長の立場を鮮明にして足利義昭を掣肘するため信長は上洛の途についたが、村重は細川藤孝とともに信長を逢坂まで出迎えた。村重の忠節に対し、信長は「御機嫌申すばかりな」いほど上機嫌となり、「郷義弘」の刀を下賜した。

    その後、「摂津守護」に任じられた村重は、主に本願寺攻めを担当していたが、毛利氏と結んだ波多野氏、別所氏らが本願寺に呼応して敵対するに及び、信長に叛旗を翻した。有岡城(伊丹城)に籠城したが、のち家族や家臣を見捨てて密に脱出して尼崎城に移った。ひとり生きのびた村重は入道して道薫(どうくん)といい、茶人として秀吉に仕えたが、最後は自殺したとも伝わる。

    天正7年の有岡城の陥落は悲惨だった。10カ月余の籠城ののち、落城すると、残された女・子どもたち一族は京都六条河原で惨殺され、有力家臣の女房・娘らは七ツ松で磔の刑に処せられ、その他の女・子ども・若党ら500人余りは4軒の家においこまれて、家もろとも焼かれた。

   荒木村重に関しては、有岡城落城の悲劇性、村重の逆心、茶人としての堺での晩年など謎の多い武将である。利休七哲の1人に数えられることもある。近年、伊丹に荒木村重研究会が発足し研究が興る。

 参考文献

荒木村重史料 八木哲次 伊丹市 1978

謎の武将 荒木村重と伊丹城 香村菊雄 神戸新聞出版センター 1983

荒木村重 惜命記 黒部享 講談社 1988

村重 第1号~第5号 荒木村重研究会会報 2001~2005

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コメント

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