烙印の女たち 芳川鎌子
大正5年から9年ごろにかけて、新聞はしばしば恋愛事件を報じた。大杉栄・神近市子の日蔭の茶屋事件(大正6年)、芳川伯爵若夫人の千葉心中事件(大正6年)、白蓮事件(大正10年)など、世間の好奇心をくすぐるような形でそれらの事件は報道された。それは恋愛問題や結婚問題について、婦人が独立の地位を要求し、男性の所有物から抜け出そうとする苦闘だったといえよう。そして「自由主義恋愛」という言葉がどこからともなくこの時代に生まれた。
大正6年3月7日、千葉駅で若い女が列車に飛び込んだ。同行の男は女が死んだと思い、土手によりかかり短刀で喉を突いて死んだ。男は倉持陸助といい、芳川顕正伯爵のお抱え運転手、女は芳川顕正の娘で曾袮寛治の婦人の芳川鎌子であった。鎌子は重傷ながら一命をとりとめる。身分違いの男女が深い恋に落ち、情死にまで発展したことに世人は驚かされた。4月には退院した鎌子は麻布の本邸にもどったが、世間から逃れて下渋谷に隠棲した。世間は冷たく「姦婦鎌子ここにあり」「渋谷町民の汚れなり」などと板塀に書かれた。また彼女が鎌子だとわかると御用聞きまでが寄りつかなくなったという。正式に寛治と離婚して、芳川家からも除籍された鎌子は、青山の次姉邸などをへて鎌倉の別荘に住む。しかし大正7年10月には出沢佐太郎という運転手と再び駆け落ちしてしまう。出沢は倉持が心中する晩に涙しながら酒を飲んだ同僚であった。その後、無理やりに連れ戻された鎌子はうつ状態となり、自殺するおそれもあるので、やむなく出沢との結婚を許した。芳川家は鎌子に完全な「勘当義絶」をして一切仕送りも中止した。しかし生活苦と病気により、大正10年4月、鎌子は横浜の南吉田町で亡くなる。享年29歳。芳川鎌子はスキャンダラスな姦婦として世の指弾を浴びたが、爵位より愛を命がけで選びとった大正の自由主義恋愛を代表する女性といってよい。
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それは一人のこと。
全ての人がそうだったら、彼女が非難されることはない。
投稿: mockingbird | 2007年9月 4日 (火) 16時45分
心中か・・一緒に死んでくれと女に言われたら・・私も若い頃そんな体験があったが・・
後先見えなくなるのが恋愛の世界。
哀れというか・・ヽ(*≧ε≦*)φ
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年3月 7日 (木) 05時44分