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2016年3月 5日 (土)

山宣の産児制限運動

20090413_01_2   少子化社会の現在ではあまりみなれない状況だが、「貧乏人の子沢山」といわれた大正時代、労働者たちにとっては、子どもの多いことは苦難の種であった。このような彼らに正しい性知識をあたえようと奮闘する若き生物学者がいた。;彼はやがて衆議院議員になる。山宣の愛称で知られる山本宣治(1889-1939)である。 

    明治22年京都に生まれる。病気のために中学を退学したが、明治40年に単身でカナダに留学、明治44年帰国後、三高、東大をへて、大正9年京大、同志社大の講師となる。通常の生物学でない「人生生物学」の講義をおこない、性科学や優生学を教えた。大正11年3月10日にマーガレット・サンガー夫人の来日を機に、産児制限運動(山本自身は産児調節という語を使用している)にのりだし、労働者の中に入り、労働運動と結びついた。大正14年に雑誌「産児調節評論」(のち「性と社会」と改題)を刊行するが、同年京都学連事件で京都大学、同志社大学の教壇を追われる。昭和3年の総選挙では労働農民党から立候補。日本最初の無産党代議士となる。三・一五事件の後、労農党は治安警察法によって解散させられ、彼は治安維持法の改悪を痛烈に批判した。そのため昭和3年3月5日、東京神田の旅館で右翼の七生義団の黒田保久ニによって暗殺された。この山本の労農葬は全国で行なわれたが、大山郁夫が贈った追悼の辞、「われらの行くところは、戦場であり、墓場である」は有名である。この山宣の伝記映画がある。「武器なき斗い」(1960、大東映画)という作品だが残念ながら未見である。山本薩夫監督、西口克己原作、依田義賢・山形雄策脚本、前田実撮影、出演・下元勉、渡辺美佐子、東野英治郎、小沢昭一、宇野重吉、キネマ旬報ベストテン。山本薩夫は翌年には「松川事件」を撮っている時期であり大いに期待できる作品だろう。

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コメント

久しぶりの訪問です。
昭和13年生まれの私。兄弟は5人です。
それでたいして多くはなかったですから。
橋下大阪市長は七人の子沢山。今時珍しいですよね。

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