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2016年3月 6日 (日)

一番町教会と二松学舎

   明治30年、国木田独歩と榎本治子が居住していた麹町一番町の家屋の番地の詳細は分からないが、付近には一番町教会やニ松学舎があった。西洋のキリスト教と東洋の漢学塾が並んでいるところが、開化期の明治らしくて面白い。

    植村正久(1858-1925)は、安政4年12月1日(太陽暦では1858年1月15日)、上総国山辺郡武謝田村に生まれる(一説に東京芝露月町)。父は植村禱十郎(1832-1889)、母は植村てい(1840-1887)。正久はその長男で、幼名を道太郎という。明治4年、横浜の修文館漢学科に入るが、翌5年に宣教師バラ(1832-1920)の私塾バラ学校に入学。明治6年に横浜の日本基督公会で、バラより受洗する。ブラウン塾に入学。明治10年、ブラウン塾が東京に移り、築地神学校と合併して東京神学校となる。9月入学する。10月、日本基督一致教会が成立。明治15年、奥野昌綱を通じてフェリス女学校の教師の山内季野(1858-1930)と結婚。明治20年3月6日、番町一致教会が成立(後の一番町教会、富士見教会の前身)。番町一致教会は最初麹町区一番町18番地(通称厩谷)にあり、ささやかな借家で、椅子が並べてあった。その後、明治21年に梨本宮邸の真向かいの麹町一番町48番地に新築、移転した。そのころ憲法の改正が行なわれて、明治24年1月から実施され、日本基督一致教会が日本基督教会と改称され、この時から一番町教会となったという。

   一番町教会の付近には、漢学塾の二松学舎があった。麹町区一番町403番地(:現・千代田区三番町6番16号)。明治10年10月、三島毅(三島中洲)が設立した。黒木欽堂、入江雨亭、夏目漱石らはここで漢学を学んだ。

   ともかくも独歩にとって麹町一番町はゆかりの地で、一番町教会において明治24年1月4日、植村正久から受礼を授けられ、また佐々城信子との結婚式の司式を行なったのも植村であった

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「日本史」カテゴリの記事

コメント

独歩の一番町の続稿も有り難く読ませていただきました。
『国木田独歩 宮崎湖処子集』(岩波書店/2006.1)の新保邦寛氏の補注によると、植村正久は「旗本の長男として江戸芝露月町(一説に上総国山辺郡武謝田村の母の実家)に生まれる。父は大政奉還とともに帰農し、明治維新以後は横浜で薪炭商を営む。」となっていますね。
なお、ケペル先生の単純な誤記だと思いますが、独歩の植村による受洗は、明治24年(1月4日)ですね。

漱石の二松学舎については、↓に漱石自身の回想が引用されていますね。
http://www.nishogakusha-highschool.ac.jp/university/shushinn/shushinn.html
回想の全文は、
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2676_6502.html

独歩の受洗は明治24年1月4日に訂正します。タネ本は講談社「日本現代文学全集14」昭和39年。表紙には「内村鑑三集」とありますが、植村正久集、新島襄集も3段組にぎっしりと収められていて便利ですが年譜には間違いが多いようです。「明治22年、33歳」の項に記載されているのを信じ込んで書いたのです(431p)本来ならば信仰の深みに至ることをかきたいのですが、とりあえず物故者の戸籍調べのようなことをブログネタとしてかきちらしています。

二松学舎は明治三大私塾ではありません。慶応義塾・同人社・攻玉塾です。これは帝國教育会という戦前の教育者団体がその書籍でまとめているもので根拠がありますが、二松学舎を含む文献はどこにもありません。

ご指摘のとおり訂正します。独歩は好きな作家なのでこれからも作品を読み続けて、記事にしたいと思います。

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