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2016年3月30日 (水)

ヒンクリーとバルド(狙われた有名人)

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ョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア ロバート・ジョン・バルド

 

   ジョン・ヒンクリーは「タクシードライバー」を観て、映画の中で売春婦を演じたジョディー・フォスターへの偏執的な憧れを抱く。フォスターがイェール大学へ入学すると、ヒンクリーは彼女に近づきストーカー行為を繰り返した。ヒンクリーは自分が大統領を暗殺するという大事を引きおこせば、ジョディーが自分を認めてくれるという妄想をおこした。1981年3月30日、レーガン大統領を狙撃し、胸部に命中した。ヒンクリーは逃亡しようともせずその場で身柄を拘束された。彼は精神の病気で責任能力がないとされ無罪となり、現在も強制隔離入院中である。

 

    同じ頃、サマンサ・スミス(1972-1985)という米ソ冷戦下で親善大使の少女として有名な少女がいた。ロバート・ジョン・バルドはスミスちゃんをストーカーしていた。しかし彼女は1985年8月25日、飛行機墜落事故で13歳で他界した。バルドはテレビなどモデルで活躍していたレベッカ・シェーファー(1967-1989)を狙った。シェーファーはハリウッドでも若手女優として期待されていた。TVムービー「恐怖の航海」(バート・ランカスター主演)では歌手シェリルを演じた。レベッカはバルドの銃弾によって21歳の短い生涯を閉じた。

 

2016年3月29日 (火)

人名と教養

Photo_2  すこし前の話だが安倍首相が憲法学者・芦部信喜の名前を参院予算委員会で質問され、「私は存じ上げておりません」と回答した。(2013年3月29日)。このことがネット上で話題となったことがある。芦部信喜は日本の憲法学者、宮沢俊義の弟子で、近年の憲法学者の中では最も高名な人物である。安倍は法学部卒で国会議員、それも改憲論者というのがその理由である。だがこのような人を貶める論法は姑息で卑怯という感が否めない。昭和期の憲法学者の名前をあげるとして、美濃部達吉、我妻栄、宮沢俊義の名前は「コンサイス日本人名事典」(1990年版)には収録してあるものの、問題の芦部の名前はない。知らないとしても無教養とまではいえまい。もちろん一国の総理であり、憲法を論ずる政治家としての見識には失望させられる。また憲法の知識があっても、著者の名前を留意しない人もいる。本に書かれている内容が大事であって、著者や書名や発行所には意に介さないタイプの人も結構いるようである。これらの知識は、いわばただの符牒であって教養とは無関係なのである。仮に百歩譲って、芦部信義の名前を認識することが憲法を語る上での最低常識だとして、コンサス日本人名事典に未収載の人名も加えるのなら何人の人名を知らねばならのか。コンサイス約14000名プラス世界人名約1900名(山川の世界史人名辞典)、合計15900名となる。たぶん全て知っている人はいかなる博覧強記の人でもいないと思う。また姓名をすべて知らなければならないのか、業績とか人となりを知らないと、知ったことにはならないのではないか。ピカソのフルネームをいえる人はいないし、エル・グレコの本名ドメニコス・テオトコプロスを知る人は少ない。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの名を知らなければ無教養と決めつけるならば、その人はフル・ネームを正確に言えるのだろうか。人名はふつう苗字が通称名だが、ナポレオンやミケランジェロ、ラファエロ、ダンテ、ガリレオなどはなぜか名前で覚えている。とくに規則があるわけではなく慣例としかいいようがないつまりすべての名前はただの符牒にすぎないのである。

 フランスの哲学者ヴォルテールという名前は、本名アルエArouetをラテン表記にしたAROVETLIのアナグラムの一種らしい。ヴォロンテール(意地っ張り)という渾名が由来という説もある。

   AKBの川栄李奈ちゃんがある番組でこんなエピソードを紹介している。「あのぉ、私なまえが川栄って言うんですけど、AKBに入りたての時、周りの評判とか気になって、「川栄」でネットを検索してみたんですよ。そうしたら、見事に大川栄策さんしかでてなくって…」

 

 

2016年3月27日 (日)

若葉マーク 

20120509   普通自動車免許取得後1年未満の人の車に貼付することが義務づけられた初心者マークを「若葉マーク」という。1972年10月1日から制度が導入された。1997年からは75歳以上の高齢者のドライバーにつける「もみじマーク」も登場した。このデザインは枯れ葉にみえるということから、2011年には新デザインの「四つ葉マーク」に変更された。なお従来の「もみじマーク」もそのまま使用することができる。

2016年3月24日 (木)

プラトニック・ラブは純愛ではなかった

   肉体的欲望を伴わない精神的恋愛。プラトニックとはギリシアの哲学者で霊魂の不滅を主張しイデア論を唱えたプラトンのことであるが、彼自身が純潔を説いたわけではない。プラトンが恋愛について書いた「饗宴」で、「魂よりもより多くの肉体を愛する卑俗な愛人は悪い」といってるのは、その頃一般に行われていた男性間の同性愛、少年愛についての言葉なのである。ルネサンス時代の人文学者マルシリオ・フィチーノによってプラトンの著作がラテン語に翻訳され、「アモル・プラトニクス」という語が生まれた。オルセー美術館にあるジャン・デルヴィルの「プラトン・アカデミー」はプラトンの周囲に美青年たちが、その言葉に耳を傾ける姿が描かれているが怪しい雰囲気がただよう。男と女の両方の性をあわせもつアンドロギュノス(両性具有)の若者たちで、一種の理想郷的空間と解釈される。日本では近代浪漫主義運動の先駆者・北村透谷が1887年に「ラブ」として紹介して一世を風靡した。

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 デヴィル 「プラトン・アカデミー」 1898年

2016年3月23日 (水)

スペイン風邪 1918-1920

Spainmask   日本で米騒動の勃発した1918年は、春から世界で流行していたスペイン風邪が秋になる日本でも猛威をふるい、肺炎や心臓病を併発して死亡する者があいついだ悲惨な年でもあった。そして世界中で約2500万人が死亡したと推定され、これは第一次大戦の死者をはるかにしのぐ数字だった。

    地球上の住民の約半数が罹患したとまでいわれるこのスペイン風邪は、この年の早春、アメリカの兵営で発生し、4月に第一次大戦のフランス戦線に伝染、同月末にスペインに広がって、5月末になるとアルフォンソ国王、首相以下の閣僚も感染した。6月にイギリスに移って「スペイン風邪」と名づけられた。

    日本でも春ごろから流行、初秋には死亡率が激増した。東京市内の4つの火葬場は満員で、看護婦は不足し、多数の鉄道関係者も罹患して輸送に不便をきたすありさまとなる。このスペイン風邪による死者は日本だけでも45万人に達する。スペイン風邪で亡くなった著名人はクリムト、エゴン・シーレ、マックス・ウェーバー、アポリネール、徳大寺実則、大山捨松、辰野金吾、島村抱月、村山槐多、折田彦市など。(参考:速水融『スペイン・インフルエンザ 1918-20』藤原書店)

クーリッジ効果

   オバマ大統領がキューバを訪問した。現職の米大統領がキューバを訪問するのは、1928年のクーリッジ大統領以来のことで、実に88年ぶりとなる。カルビン・クーリッジ大統領に因む言葉として「クーリッジ効果」がある。政治家の名前を使っているので、経済効果なぞと思うだろうが、生物学上の用語である。オスのネズミとメスのネズミを1つのカゴの中に入れておくと、最初のうちは盛んに交尾活動を行なうが徐々に交尾活動は減少していく。これは交尾そのものに飽きたわけではなく、そのメスとの交尾活動に飽きただけで、新しいメスを入れると、また盛んに交尾活動が行われる。最近、芸能人の浮気が週刊誌などでスクープされ世間からの非難を浴びることがあるが、動物の生理学上から考えると、いささか同情の余地はあるような気がする。映画「いつも2人で」(1967)知り合って12年、やや倦怠期に入った夫婦をオードリー・ヘプバーンとアルバート・フィニーが演じている。

 

 

而今(にこん)

あさイチで禅の特集。而今とは、今このときをただ懸命に生きる、という意味。道元の「正法眼蔵」山水経に見える語。「生而今」ともいう。広辞苑をはじめとする辞書にはあまり載っていない。

日本の教育界がセーラー服を採用した本当の理由

Photo_2   公開中の橋本環奈主演の「セーラー服と機関銃 卒業」が予想を上回る高い評価を受けているらしい。やはり美少女+セーラー服は男子に根強い人気がある。だが現実社会ではブレザーの採用校のほうが多く、セーラー服は毎年減少を続け、その数10%程度にとどまっている。日本以外の国でセーラー服を着た女学生は少ないが、タイや中国で採用したところ、人気で志望者が大幅に増えたともいわれる。

   セーラー服の起源は19世紀はじめイギリスの水夫・水兵が着ていた服である。胸元のスカーフは、水兵が手拭い代わりに使っていたタオルの名残りと言われる。水兵服からヒントを受けてデザインされたセーラー服は、日本では大正9年に平安女学院がセーラー服を採用したのが最初で、以後、お茶の水高師附属高女や雙葉高女が通学服として採用し、全国に普及した。なぜ日本の教育界がセーラー服を採用したかについては諸説ある。①男子の学生服が立襟で陸軍式の5つボタンのチュニックを採用したため、それならばと女子には海軍の軍服にした。②セーラー服の胸が大きく開いた逆三角形になっており、海に落ちた時にすぐに服を破り、泳ぎやすくするため。③制服決定権は教育関係者にあり、男社会の時代、セーラー服のファッションが男に好まれたといういわば先生のエロスから。これらの理由を具に検討するに、①のいくら軍国主義の時代とはいえ、陸軍に対抗して海軍、というのは根拠としては首肯しがたいものがある。②の根拠はよく言われるが、女学校で海に溺れるというケースはまれではないだろうか。③の理由は男としてよくわかる。だが、胸襟が大きく開いている理由は、単にエロスというだけではなく、乳房の発育と関係するのではないだろうか。女子の乳房の膨らみは10歳くらいで初潮を迎えたときから女性ホルモンが分泌されて、それから約10年間、20歳ぐらいになるまで成長する。つまりセーラー服の着用時が最も乳房の発育期にあたり、3年間、同じサイズの服を着続けるとバストの部分が窮屈となる。そのため襟がV字で大きく開いたセーラー服が適当と実用面で判断したのではないだろうか。

2016年3月22日 (火)

明治の流行語「ラクダ」

  「ラクダ」とは男女二人連れのこと。1907年に東京・上野動物園の入場者が、フタコブラクダとキリンの人気で急増した。二人連れがラクダのこぶのようにくっついているという意味からこう呼ばれた。広辞苑で「らくだ」を引くと、「➂江戸時代に夫婦、または男女が連れだって歩くこと」とある。つまり、アベックという言葉がない時代、「ラクダ」という表現が江戸時代からあったのであろう。

勢力の注集

   朝ドラ「あさが来た」瀬戸康史が演じる成澤泉は明治の教育者・成瀬仁蔵(1858-1919)がモデルである。1901年4月20日に日本で最初の総合的な女子高等教育機関として日本女子大学を創設し、初代校長に就任した。この日本女子大学設立に当たっては、明治の女傑として称される広岡浅子が共に政財界に呼びかけ、特に実家の三井家から土地を提供させるなど大きく貢献した。ウィキペディアの成瀬の項目には「聴くことを多くし、語ることを少なくし、行うことに力を注ぐべし」という言葉と「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の3語が見える。ここにあげた「勢力の注集」は「20世紀のことばの年表」(東京堂)の1906年(明治39)に載せられている言葉。解説には「日本女子大学の創立者が口癖に使った言葉。1時間の講義で50~60回も使ったといわれている。勉強に限らず、恋愛でも一生懸命にやることをこう表現した」とある。

志賀直哉「暗夜行路」は「ハムレット」のパクリだった!!

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   現代の日本文学の作家はほとんどといってよいほど映画好きである。夏目漱石は留学中のパリ博覧会(1900年)で初期の映画をみている。弟子の寺田寅彦の日記をみると映画のことばかり書いている。谷崎潤一郎は映画の製作に深くかかわった時期があった。大岡昇平や三島由紀夫は映画雑誌に評論を寄稿している。映画、ことに洋画は西洋文化の窓口だった。「暗夜行路」で知られる志賀直哉もかなりの映画好きで、「紅葉狩」(1904)から「女が階段を上る時」(1960)まで半世紀以上、名画を鑑賞している。志賀直哉は明治44年に坪内逍遥の文芸協会公演「ハムレット」を観ている。これには不満だったらしく、「土肥春曙のハムレットが如何にも軽薄なのに反感を持ち、かえって東儀鉄笛のクローディアスに好意を持った」とある。翌年に無罪のクローディアスの視点から短編「クローディアスの日記」を発表する。だが大正になって志賀は活動写真でフォーブス・ロバートソン(1853-1937)の「ハムレット」を観てハムレットに同感するようになる。おそらく志賀の見たハムレットはバーナード・ショーの演出の舞台劇をそのまま撮影した映画であろう。これが「暗夜行路」創作の切っ掛けとなったことは疑いない。叔父クローディアスと母ガートルードの間から出生したという疑惑を祖父に置き換えれば、ハムレットから時任謙作が誕生する。もっともシェイクスピアの「ハムレット」にしても、その時代にすでに「原ハムレット」といわれる種本があったといわれるから、文学作品はすべて同工異曲なのかもしれない。(参考:剣持武彦「志賀直哉 暗夜行路論」 清泉女子大学紀要45  1997年、貴田庄「志賀直哉、映画に行く」2015年)

もともとは人名が由来の植物の名前

   花、ことにバラの品種に女性の名をつけることはよくある。フランス王ルイ16世の妃マリー・アントワネット。その母、マリア・テレジア。伝説のプリマドンナ、マリア・カラス。最近ではマサコ(雅子)やプリンセスダイアナなどがある。

   ベゴニアは亜熱帯に広く分布するシユウカイドウ科に属する植物の総称。Begoniaの名はフランス人ミシェル・べゴン Michel Begon 1638-1710の名に由来する。べゴンはフランス領アンティル諸島の総督で、植物学者シャルル・プリュミエが1700年に出版した著書に6種の植物をベゴニア属として紹介した。べゴンはプリュミエをフランス王のルイ14世に植物採集者として推薦したので、その感謝の気持ちで名づけたのだろう。

   花の名には、人名から少し変えた形でつけたものが多い。ガーベラは発見したドイツの植物学者トラウゴット・ゲルベアから、カトレアは栽培し花を咲かせたイギリスのウィリアム・カトレイから付けられている。ダリアはスウェーデンの植物学者アンデシュ・ダールにちなむ。ブーゲンビリアは発見したフランス人の探検家ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルから、ポインセチアはアメリカ合衆国の初代メキシコ公使で発見者のジョエル・ロバーツ・ポインセットから、などと言う。

チョウノスケソウ。バラ科の小形の常緑低木。牧野富太郎は発見者の須川長之助の名にちなんで和名をつけた。

語源の楽しみ

   ヘビやオオトカゲが繁殖期に、なわばりやメスなどを争って、オスどうしが戦う。多くの場合は、傷つけ合うほどではなく、儀式のように決まった動きで行われる。一方が引き下がることで、決着がつく。このような様子を日本では「コンバットダンス」という。英語 combat は「戦闘」という意味だが、combat danceという英語は辞書やネットにも出てこない。アメリカ人に「コンバットダンス」をたずねてもわからないだろう。つまり「コンバットダンス」という語は和製英語(日本で英語の単語を組み合わせるなどして、英語らしく聞こえる語)かも知れない。おそらく60年代の米テレビドラマ「コンバット」で、匍匐前進をして戦闘するシーンがよく登場するが、それを連想してつくられた造語なのだろうか。

  広辞苑の「和製英語」の項では、「オフィス・レディー」と「ナイター」が取り上げられている。「ナイター」が純然たる和製英語なのかは異説がある。英語で一般には、a night game と言うが、アメリカンフットボールなどでは nighter という語を使うらしい。これは、日本生まれの和製英語が偶然英語でまれに使われている語と一致したのか、あるいは英語の稀語が日本で定着したのか、はたまた和製英語が逆輸出されたのか、今後の調査研究がまたれる。

   日本では1948年8月17日の読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦が最初の夜間試合。しかしナイターという語が社会一般に広まったのはそれから2年後のことである。「20世紀のことばの年表」(東京堂) ナイターの項目には1950年7月とされる。

2016年3月21日 (月)

助兵衛(すけべえ)

   好色なことや好色な人を意味する。語源については、幸田露伴「当流人名辞書」(明治33年)に、「助兵衛、多情の人、または貪婬の人をさして云ふ。すきといふ詞に基ける称にや。江戸語。東京語」とある。もともとは好色の「すき」に「兵衛」をつけた擬人名さとれる。大槻文彦の「大言海」(昭和8年)にも「好ヲ、擬人シタル語」とある。

カナリアがいたからカナリア諸島!?

 昭和の時代、カナリアは飼い鳥の王様だった。洋風の応接間にはカナリアの入ったカゴを置き、お客様を招いて洋菓子と紅茶を頂く。けれども時代の変化とともに、いつのまにかカナリアも家庭で見かけることはまれになった。カナリアは、スペイン領カナリア諸島原産で、14世紀から15世紀にかけて、スペイン人によってヨーロッパにもたらされた。原種のカナリアは緑がかった茶色をしているが、現在のカナリアは黄色から、赤、アプリコット、あるいはオパールといった様々な色をしている。16世紀では貴族や宮廷の貴婦人の間でその美しいさえずりが人気を博したが、17世紀には上流階級の市民、さらには裕福な商人や職人にまでカナリアの愛好家が広まっていった。カナリアが最初に登場した学術的な文献はスイスの書誌学者コンラート・ゲスナーの「動物誌」(1551-1558)である。この本には「砂糖の産地であるカナリア諸島からもたらされる、カナリアというさえずりの上手な鳴禽」が「どこでも法外な値段で売られている」と書かれており、この頃すでに、相当数のカナリアがヨーロッパで売買されていたことがわかる。当時はオスのみが取引されていたようだが、やがて、経緯は不明ながらメスも輸出されるようになる。1675年にイギリスで出版されたジョウゼフ・ブレイグローヴの「畜産技術概論」には、カナリアがドイツ及びイタリアで大量に繁殖されていると記されているし、1704年にフランスで出版されたエルヴュー・ド・シャントルーの「新カナリア考」にも、ドイツからカナリアを売りに来る行商人のことが述べられている。

   一般にカナリアといえば黄色をイメージする。黄色は希望の色であり、電気が発明される以前のほの暗い室内に、明るい歌声とともに鮮やかな黄色をもたらしてくれたから、カナリアが何百年も西欧で愛されてきたのであろう。ダイナ・ショアが歌う「青いカナリア」(1953)、日本では雪村いづみがカバーしてヒットしたが、青いカナリアは本当にいるのだろうか。青い鳥は幸せを運ぶ鳥と信じられているが、実際には青いカナリアは存在しない。

   さて、カナリアといえば北アフリカ大西洋沖に浮かぶスペイン領のカナリア諸島をすぐ思い浮かべるが、カナリアがたくさん生息していたので、その名がつけられたのだろうか。古代ギリシア人やローマ人はそれらの諸島を「犬の島」と呼んでいた。おそらく島に多くの野犬がいたのだろう。それでスペイン人たちも「イスラス・カナリアス」Insula Canaria、犬の島と名づけた。鳥のカナリアはこの諸島が原産地であるため、諸島名にちなんでカナリアと名づけられた。カナリアがいたからカナリア諸島という名になったわけではない。逆だったのだ。

仲人ものがたり

   インターネットの普及によって有名人の個人データはかなり詳細にわかるが、結婚に際して仲人(媒酌人)をつとめた人名を探しだすことは、かなかな難しい。仲人の人名事典など未だ拝見したことはない。記憶に残る仲人はわずか数人である。ネットにみえる「クイズ研」の問題。三島由紀夫が33歳で画家杉山寧の娘、瑤子と結婚した際、結婚式で仲人を務めた作家は誰?答えは、川端康成。川端は昭和32年に岸恵子がパリでイブ・シャンピと結婚したとき、仲人(立会人?)を努めている。明治22年、森鷗外は赤松登志子と結婚する。森家と縁戚関係にあった西周が仲人をつとめた。昭和14年、太宰治は石原美知子と結婚する。仲人は井伏鱒二。昭和37年、美空ひばりは小林旭と結婚。仲人は田岡一雄。昭和55年、山口百恵は三浦友和と結婚。仲人は宇津井健・友里恵夫人。所ジョージの仲人はタモリ。

西施乳

   中国では、昔からフグのことを西施乳(せいしにゅう)という。フグの腹の下の白子の部分は美味で、春秋時代の美女・西施の乳房にたとえられた。近松門左衛門の浄瑠璃に「味の甘きこと、西施乳とて美女の乳房にたとえながら・・・・我が朝の河豚なるべし」(松風村雨束帯鑑)とみえる。

漱石・鏡子夫妻の仲人(媒酌人)は?

   ある特定の人物について調査する場合、その氏名、生没年、経歴、業績、住所、墓所などが一般的な探索事項であるが、時として百科事典とか伝記に記されない仔細なことを求められることがある。夏目漱石と中根鏡子は明治29年にお見合いで結婚したが、そのときの仲人(媒酌人)までは一般書には記されていない。漱石に関する本は無数に出版されているので、仲人の名前は知ることができた。鏡子の父、貴族院書記長の中根重一の知り合いで井上廉(1846-1914)である。

Photo   たまたま江戸東京博物館で「ある幕臣の幕末・明治  井上廉と川村帰元」展を開催していた。井上が1856年から1913年にわたって記した膨大な量の日記が展示されている。漱石の仲人といってもおそらく名義上の媒酌人であろう。ここでは井上廉の基本事項を略記す。

出生 1846年5月15日(弘化3年4月20日)

没年 1914年(大正3年)2月18日

経歴 旧幕臣で、維新後、新政府に出仕し、元老院議官や内閣恩給局長を歴任。なお、名の読みは「きよし」(徳川幕臣人名辞典)と「れん」(幕末維新大人名事典)に分かれる。

2016年3月20日 (日)

Bachが読めない

Photo_7   洋の東西を問わず人名・地名に興味がある。むかし「Bach」と書かれていて何の事か分からず、あとで音楽家バッハであると分かって恥ずかしい思いをした。ドイツ語で「小川」という意味。

   よく知っている人名・地名でも原綴では判らないことがある。Chopinはチョピンではなくショパン。 「The three musketeers」(フランスでは、Les Trois  Mousquetaires」デュマの三銃士。映画のタイトルで「Disraeli」19世紀のイギリスの政治家ディズレリ(1804-1881)のことだった。画家ゴッホと医師コッホは日本語では似ているが、原綴では、GoghとKoch、全然異なる。ピカソ Picasso は英語などでは「パイキャッソー」と発音する。

詩人のランボー(Rimbaud)と映画「ランボー」(Rambo)も異なる。

次の人名・地名が読めますか?

Guethe、Comte、Caesar、Siebold、Buddha、Watt、Croce、Zurich、K'ung-Fu-tzu(Confucius)

ゲーテ、コント、シーザー、シーボルト、釈迦、ワット、クローチェ、チューリヒ、孔子

県庁所在地で最も人口が少ないのは鳥取市

   1955年の国勢調査以降、全国の県庁所在地の中で長らく最下位であったのは山口県山口市であるが、平成の大合併の動きの中、最下位を脱して、2016年2月現在の推計人口は、鳥取市を上回っている。

山口市 197,426人

鳥取市 193,530人

孟母三遷

Photo   孟子は3歳のとき、父と死別した。孟子の母は、はじめ、墓地の近くに2人で住んでいたが、幼い孟子が墓堀人夫の真似ごとをするので、市場の近くに引っ越した。すると、孟子は商売の真似ごとばかりして遊んだ。そのため孟母は学校のそばに引っ越した。孟子は礼儀を学ぶようになり、孟母はやっと安心したという。

    孟子が学校へ行っていた頃の話である。あるとき、学業半ばで帰省した際、母は織りかけの機の糸を断ち切り、「おまえが中途で学業を放棄することはこのようなものですよ」といましめた。それから孟子は朝から晩まで学問に励んだということである。

   「孟母三遷の教え」と「孟母断機の教え」の出典は漢の劉向「列女伝」にある。広く知られた故事だが、「孟子」には見えないので、どこまで本当かは疑問である。孟子の父親の名は「孟激」といい、孟子がまだ幼いころにこの世を去った。母親の名はわからないが、姓は「仇」といいます。

   三度目にやっと落ち着いたのだが、引越しは2度したことになる。厳密にいえば「孟母二遷」が正しいが、「孟母三遷」として通用している。古代中国では奇数がめでたいとする考えから「三遷」となったのではないか、という説(言語学者の金田一春彦の説)がある。

「三度目にやっと落ち着く孟が母」

「三度引っ越して賢人を仕立て上げ」

「おっかさんまた越すのかいと孟子いい」

「孟父だと引っ越すどころかぶんなぐり」

「機を切る孟母は短慮功をなし」

 江戸川柳でも一番人気の故事である。

2016年3月19日 (土)

不気味な略語の氾濫

Kkk    無機質な感じのアルファベット文字の略語が社会に氾濫している。TTP環太平洋パートナーシップ協定。農業部門の生産額が減少するが、貿易の自由化で輸出は拡大するらしい。WBC、MVP、JCB、DNA(遺伝子)、DVD、HIV、ODA、PKO、GNP(国民総生産)、NGO(非政府組織)、MRI(磁気共鳴画像装置)、IOC(国際オリンピック委員会)、LED(発光ダイオード)、NPT(核兵器不拡散条約)、iPS(人工多細胞性幹細胞)、FTA(自由貿易協定)。KKKのようにアルファベットの略語には不気味な感じがする。

頭字語には2種類ある。

イニシャリズム(頭文字を1字ずつアルファベットの名のままで読むもの)OECD(オー・イー・シー・ディー)。

アクロニム(連なったアルファベットを通常の単語と同じように発音して読む)NATO(ナトー)

漢和辞典と部首

   漢和辞典の検索は、部首の見当をつけながら、画数順に配列されている漢字を順に目で追うようにして探すのが正攻法であろう。しかし実際は五十音順に配列している音訓索引のほうが、素早く引けて、部首がわからないでも引けるので便利である。学生時代にこの点を先生から注意されたが、結局改めずに音訓索引から引き続けたので、部首がわからないままになった。このことは中国書などを扱う専門家になると困ることが多い。字引に時間をかけるのは試験勉強には一見ロスタイムのようだが、結局、学問の基本を養うには部首から引くことをすすめたい。

   「卍」(まんじ)という漢字は、たぶん多くの人が5画と数えることだろうるところが漢和辞典では6画とされている。漢和辞典では「卍」は「十」の部首に入れられている。つまり「卍」という字は「十」の4つの先端にそれぞれ短い線をつけたものとして扱われているのである。だから「十」(2画)プラス4本の線(4画)で6画になるわけである。

部首のわかりにくい漢字を集めてみる。

愛 部首は「心」

承 部首は「手」

巣 部首は「川」

失 部首は「大」

勝 部首は「力」

着 部首は「羊」

余 部首は「人」

前 部首は「刀」

東西南北と東南西北

   麻雀の好きな友人がある時、「日本ではふつう東西南北というのに、中国ではどうして東南西北(ドンナンシーペイ)というのか」と聞く。考えてみれば、東西南北は東西と南北という対立概念を組み合わせた表現である。それに対して、東→南→西→北と時計の針の回転と同じ順序に従った並べ方である。日本ではかなり古くから東西南北という言い方をして来たらしい。菅原道真の漢詩「舟行五事」の起句に見える。中国でも、東西南北という言い方は、「春秋左氏伝」(襄公29年の条)に見える。古くから東西南北という語は存在していたものの、中国で一般的に東南西北という言い方に変わったのは、五行説が民間に定着したことと関連するらしい。ちなみに英語では「north、south、east、west(北、南、東、西)」の順で表わす。つまり東西南北は漢語で、中国から伝わったものであるが、なぜ「東」が最初にくるのか?それは、「東」が太陽が昇る方角であり、もっと重視されたからだ、といわれている。

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   人の生活の基本として、1年は春夏秋冬の四季に分けられる。五行説によると、この世界の森羅万象すべての事象は、木火土金水の五元素の輪廻・作用が循環して生ずると説明づけられる。つまり、五元素を方角に配置すると、東に木、南に火、中央に土、西に金、北に水を当てる。さらにこれを1年の季節に当てはめるると、東は春、南は夏、西は秋、北は冬となる。

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    かくて四季の循環が東南西北の順序と合致する。木火土金水は宇宙間の万象を象徴するものであるので、下の「五行配当表」を参照されたい。

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(引用文献:一海知義「東西南北と東南西北」図書、第655号、吉野裕子「五行循環」「陰陽五行と日本の民俗」)

面ファスナーの歴史

  テープの一種に、面ファスナー(Hook and loop fastener)がある。日本の商品名は「マジックテープ」といい、ざらざらした2つの面を合わせると、ぴたっとくっつき、強く引っ張れば離れ、何回も使うことができる。1941年、スイスの登山家のジョルジュ・ド・メストラル(1907-1990)はアルプスを歩いていたとき、植物の実が衣服にくっつき、悩まされた。なぜ、くっつくのか、不思議に思った彼は、その実をよく観察した。実はたくさんの鉤状の棘がついていた。そのため、衣服にくっつくとなかなか離れなかった。「そうだ、これをファスナーに応用できないものだろうか」そして考えついたのが、面ファスナーだった。1948年に研究を開始し、1951年に特許出願し、1955年に認定された。(George de Mestral)

ハットトリックの語源

   サッカーで、一試合で1人の選手が3点以上のゴールを決めることを「ハットトリック」hat trickという。それを文字どおり訳すと「帽子の奇術」となるが、どうしてそんな風にいわれるようになったのか。「ハットトリック」は、もとはクリケット用語で、投手が連続3球で打者3人をアウトにしたときに指していう言葉だった。投手が3人続けてアウトを取るのは至難の技である。その投手に帽子を与えた。なぜ帽子なのかというと、奇術にはよく帽子が使われる。3人続けてアウトにするのは奇術のように難しいという意味からなのである。

日本に富士山より高い山があった!?

   台湾のほぼ中央部に位置する玉山は、標高が3952mで、富士山より176mも高い。台湾の日本統治時代(1895-1945)に「新しい日本最高峰」の意味で「新高山」と名づけられていた。戦前の小学校でも「日本一高い山は新高山」と教えられていた。「ニイタカヤマノボレ一二○八」12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ、真珠湾攻撃の電文である。ちなみに成功を伝える暗号は「トラトラトラ」だった。

   1900年4月11日、鳥居龍蔵か新高山の登頂に成功し、記録上これが新高山初登頂とされる。

漱石山脈は死火山!?

   小泉堯史監督の「蜩ノ記」が話題になっている。その理由のひとつが黒澤明監督の手法を忠実に受け継いでいることにある。「花燃ゆ」も吉田松陰が育てた塾生たちの活躍が見所の1つであった。キーワードは師弟関係か。ソクラテスとプラトン、フローベールとモーパッサン、中江藤樹と熊澤蕃山、内村鑑三と矢内原忠雄、映画の木下恵介と山田太一、マラソンの中村清と瀬古俊彦、小出義雄と有森裕子・高橋尚子、将棋の佐瀬勇次と米長邦雄、落語の桂米朝と桂枝雀。尾崎紅葉門下の四天王、泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉。もつとも多彩なのは夏目漱石一門。多くの哲学者、小説家、評論家を輩出し、のちに「漱石山房」と呼ばれた。 しかし、「漱石山脈」の命名者の本多顕彰は「第一級の学者文化人」は輩出したが「第一級の小説家」は生まれなかったから、「漱石山脈は死火山」で漱石は孤独だったといっている。漱石の主な門下生は30人以上いるが、別格が寺田寅彦で、鈴木三重吉、小宮豊隆、森田草平が三傑。四人あわせて四天王とよばれることもある。

漱石の主な門下生
安倍能成(1883-1966)
阿部次郎(1883-1959)
芥川龍之介(1892-1927)
赤木桁平(1891-1949)
生田長江(1882-1936)
岩波茂雄(1881-1946)
内田百閒(1889-1971)
エリセーエフ(1889-1975)
江口渙(1887-1971)
片上天弦(1884-1928)
小林郁(1881-1933)
鈴木三重吉(1882-1936)
津田青楓(1880-1978)
寺田寅彦(1878-1935)
中勘助(1885-1965)
中川芳太郎(1882-1939)
野上豊一郎(1883-1950)
野上弥生子(1885-1985)
野間真鋼(1878-1945)
野村伝四(1880-1948)
樋口五葉(1881-1921)
林原耕三(1887-1975)
俣野義郎(1874-1935)
松岡譲(1891-1964)
松根東洋城(1878-1964)
真鍋嘉一郎(1878-1941)
皆川正禧(1877-1949)
物集芳子(1886-1960)
物集和子(1888-1979)
森田草平(1881-1949)
和辻哲郎(1889-1960)

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すてきなあなたに

   4月から始まる連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は戦後の女性のための実用雑誌を編集したお話し。ヒロインを演じる高畑充希のモデルは大橋鎭子(1920-2013)。鎭子は生涯、結婚せず、母や妹夫婦と共に暮らしたらしい。編集長・花森安治は唐沢寿明が演じる。「暮しの手帖」、ドラマの中では変名するが、「暮らし」か「暮し」か。「送り仮名の付け方」(昭和56年内閣告示第3号改正)により「許容 読み間違えるおそれのない場合は、送り仮名を省くことができる」とある。例 生まれる(生れる)、暮らす(暮す)、終わる(終る)。大橋が書いたエッセー集「すてきなあなたに」はいまも文庫本で読まれている。タイトルは戦後流行したジャズ「素敵なあなたに」の影響ではないだろうか。

2016年3月18日 (金)

裏誕生日

  いま裏誕生日占が恐怖を覚えるほどよく当たるという噂である。誕生月を半年ずらしたものを裏誕生日という。

1月~6月生まれの人→誕生日の月+6

7月~12月生まれの人→誕生日の月-6

(例)太宰治(6月19日生まれ)は12月19日が裏誕生日。裏誕生日は作家の村上春樹がホームページ「村上朝日堂」の中でつくりだした造語である。

語根で覚える英単語「アクロ」

acro、akros

  ギリシャ語のros(最高の)に由来し「最高の(原義)→頭、てっぺん、高い所、最先端」などの意味を表します。たとえば「つま先で歩く人」という意から acrobat は「曲芸師」の意味になる。ちなみに「高所恐怖症」のことは acrophobia と言う。

acronym    頭文字

acropolis    城砦

三浦の殿様・勘解由小路資承

   日本人の姓で一番長いのは漢字五字の「勘解由小路(かでのこうじ)」である。もとは公家の出です。1644年に公家の烏丸光弘の二男が分家して興した家で、京都の勘解由小路の地名にちなんで姓とした。明治時代には子爵となっており、武者小路実篤の母は、この勘解由小路の出である。武者小路実篤は10歳の明治29年夏、三浦半島金田に住む母の弟・勘解由小路資承(かでのこうじすけこと、1860-1925)のもとに初めて一家で行った。叔父はセメント事業に失敗して、ここ金田湾に面した丘の上に家を建てて半農半漁の暮らしを送っていた。叔父の家には膨大な洋書があった。そして農民や漁師たちと親しくつきあい、「三浦の殿様」と呼ばれていた変わり者であった。

    実篤はそれから毎年夏は叔父のもとに避暑にいった。この叔父は、実篤の一生で最も強く影響を与えた人物である。資承はそのころロシア貴族出身の作家トルストイを愛読していた。自らの生活もその影響によるものであろう。明治36年、18歳の実篤は叔父から聖書やトルストイをすすめられて読む。最初に読んだのが、加藤直士訳「我が宗教」「我が懺悔」であった。明治37年、ドイツのレクラム文庫で「ルチェルン」を読み、それからはレクラムにあるトルストイの独訳はほとんど読んだ。実篤はますますトルストイに傾倒した。

   この叔父については大正14年6月に死去したことや、貴族院議員であったことぐらいで詳しい事績は分からない。ただ資承の長女・康子(さだこ)は大正3年1月に志賀直哉と結婚している。康子は直哉よりも6歳年下で鳥毛立女屏風の美人に似た小柄な美人であると「暗夜行路」の中で表現されている。

    いずれにしても、三浦半島金田で実篤が体験した畑仕事は、のちのトルストイズムにもとづく「新しき村」(大正7年)の建設につながっていることは間違いない。

2016年3月17日 (木)

21世紀はなぜ2001年からなのか?

   「♪愛はどこからやってくるのでしょう~」シドニー五輪女子マラソン高橋尚子がレース前にこの曲を聴きながらテンションを高めたというhitomiの「love 2000』。ちょうど西暦2000年のヒット曲である。しかし2000年はミレニアムの年だったが、21世紀の前年であり、翌年の2001年から21世紀が始まる。どうして21世紀は2000年からではないのだろうか。

   西暦ではイエス・キリストが誕生した年を西暦元年(1年)としている。イエス誕生の年を元年とする西暦をつくつたのは、ローマの修道院長、ディオニュシウス・エクシグウス(470年頃~544年頃)である。525年、教皇ヨハネス1世が、数学と天文学に通じていたディオニュシウスに新しい復活祭暦の作成を委託した。その作成にあたり、彼はイエス生誕の年を西暦元年とした。西暦ゼロ年からではなく西暦1年から始めたわけだ。イエスの誕生の年から100年を1期として、それを世紀という。したがって西暦1~100年までが1世紀で、21世紀は2001~2100年までということになるる

フリードリヒ大王と音楽

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 アドルフ・フォン・メンツェル画
  1852年 ベルリン国立美術館蔵

   プロイセンのフリードリヒ大王(1712-1786)は、ヴォルテールに師事した啓蒙専制君主として知られる。しかし、同時に、音楽の愛好家でもあり、1728年からヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773)にフルートを習い、1740年にはベルリン宮廷楽団を設立した芸術の保護者でもあった。しかし軍人皇帝と呼ばれた父は息子の楽器を破壊し、帝王学を教え込んだ。当のフリードリヒは、父親の抑圧から逃れるため、国外脱出まで敢行する有様であった。その反動か、即位後のフリードリヒ2世は音楽を趣味とした。王が愛用したフルートは現在もポツダムのサン・スーシー宮殿の音楽室で公開されている。

   メンツェルの版画には、フリードリヒ大王、王女アンナ・アマーリア、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788、J.S.バッハの次男)、宮廷楽長のカルル・ハインリッヒ・グラウン、ヴァイオリンのフランツ・ベンダ、フルートのクヴァンツなどの音楽家たちがいる室内楽の様子が描かれている。

横光利一の日本回帰

Tky200704030095    朝日新聞の投稿欄に「伊賀の霧ほど美しいものはあまりなかった」という横光利一の絶筆「洋燈(ランプ)」の一節が紹介されていた。(伊賀市の高校生・松本咲希さん)。横光の故郷が伊賀であることに興味をおぼえた。

    横光利一(1898-1947)は明治31年3月17日、福島県会津郡東山温泉で、父・横光稲次郎、母・こぎく(小菊)の長男として生まれた。父は通称、利顕(としあき)と訓(よ)んだので、横光利一も「としかず」が正しい。

   しかし、横光の出身地は一般に宇佐市といわれる。父の出身地が大分県宇佐郡長峰村である。宇佐市では「横光利一俳句大会」がおこなわれている。父が土木工事の請負業者だった関係で住地を転々とした。利一が6歳のときに、伊賀の柘植に移住したのだ。

  横光の母の生家は松尾氏。三重県伊賀国東柘植の野村で、川ひとつへだてたところが松尾芭蕉が生まれた灰野である。横光利一が芭蕉の末裔という説もあったが、現在では否定されているそうだ。昭和11年の渡欧の際には高浜虚子(1874-1959)の船中句会に参加している。

   昭和5年に発表した「機械」は独白的な心理描写を中心とするものだが、谷崎潤一郎の「卍」の影響がみられるという。昭和初年、文壇を代表する作家は谷崎潤一郎と横光利一だったが、当時の日本文学の中心問題は、プルーストやジェームズ・ジョイスやラディゲなどの新しい文学をどのように取り入れるかということであった。

    横光は昭和11年2月から8月までヨーロッパ旅行を経験し、西欧文化に対して日本の美的倫理を再認識し、昭和12年4月から8月まで「旅愁」を発表した。

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イタリア統一とリソルジメント

   1861年のこの日、サルディニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレがイタリア王国成立を宣言した。1870年9月20日、イタリア王国によるローマ教皇領の併合がなされ、イタリアの統一が完成した。1871年7月2日、ローマに入城し、ヴィットーリオ・エマヌエーレが初代イタリア王に就く。(Italy,Vittorio Emanuele,Risorgiment,3月17日)

2016年3月16日 (水)

魅せる本棚のつくり方

005_01   積水ハウスの広報誌「きずな」に紹介されている「魅せる本棚のつくり方」がとても参考になります。ブックコーディネーターとして活躍されている内沼晋太郎さんのワンポイントアドバイス。1つ目は本を奥に押し込まず、背表紙を手前に揃えるとキレイに見える。本を棚に仕舞うとき、奥まで押し込んでしまいがちだが、見た目のことを考えたら、そうしないほうがいい。奥に押し込むと、手前がガタガタしてしまうが、背表紙を手前に揃えたほうがきれいに見える。これは図書館式で図書館の本は背にラベルがあって分類順に並んでいるので、コンピューターで検索したとき、本のツラが揃っていると探しやすいという実際的なメリットもある。

第2は「高さ」より「内容」で分類したほうがさがしやすい。本の大きさはまちまちなので、同じ大きさの本を揃えたほうが収納力もアップするという考えもあるが、同じ分野の本で分類して本棚を整理するほうが、探しやすく、見た目も美しい。

第3はお気に入りの本は表紙を見せて、インテリアとして活用する。内沼さんの持論は「本の収納は、見えてこそ意味がある」は、背表紙だけを指しているのではない。お気に入りの本は表紙を飾って楽しむのもいい。市販のブックスタンドなどを活用して飾ってください。(参考:内沼晋太郎「本の逆襲 本の未来は明るい」 朝日出版社)

事項索引における序列と相互関係について

   何万語や何十万語にも及ぶ語句を一覧表で検索するためには、アルファベットや五十音の順でソートされていにければ、求める語句を見つけることはできない。このブログにおいて五十音順で事項索引インデックスを継続して作成している。このヒントはカッターの辞書体目録にある。辞書体目録とは図書館情報学の用語で、タイトル標目、著者標目、件名標目の各目録記入と、参照とを混排した目録のことである。たとえば「アンナカレーニナ」と「あんな彼に恋しました」(架空の題名)は排列上は前後にくるであろう。

  手元にある事典を引いてみる。高木彬光(推理作家)と高木市之助(国文学者)の名前はコンサイス日本人名事典では前後にくる。2人に面識があったのか、なかったのか定かではないが、事典のおける序列、排列関係に何がしかの因縁が生じることなる。もっと身近な話しとしては、私たちの会社や学校の名簿をみてみよう。自分の名前の前後にいつも特定の人物の名前が載っている。しかしその人物とは一度も面識はないし、どのような人なのかまったくわからない。たまたま電車で隣あわせに座った人、スーパーで買い物のときをレジで並ぶ後ろの人。すべて行きずりの関係であるが、何がしかの相互関係がある。このような偶然に生ずる相互関係の事象をさすようなふさわしい用語がないだろうか・・・。とりあえず私はこのような現象を「他人の関係」と呼んでいる。人名だけではなく事項についてもいえる。16世紀、17世紀頃のペルシア人の王朝、サファヴィ朝の主力軍を「キジルバシュ」というが、ウイグルの「キジル」とは無関係である。Kizilとはウイグル語で「赤い」という意味。五十音でソートすると「ワラビー」と「わらび餅」、「ギジルバシュ」と「キジル石窟」の語句は前後に並んで出てくるが他人の関係。

2016年3月15日 (火)

IQの歴史

  IQとは知能指数のことで、知能テストからみちびき出される。このテストは1904年に、フランスのソルボンヌ大学の心理学者アルフレッド・ビネーらが考案し、当時の学校教育を義務化するときに初めて使われた。しかし、このときは、まだ知能指数や知能年齢は使われず、発達が遅れているか否かのみ知るものだった。

フェロモンを感じる鋤鼻(じょび)器官

   1811年動物の鼻の中にフェロモンを感じる器官が存在していることを、デンマークの外科医ルートヴィヒ・レヴィン・ヤコブソン(1783-1843)が発見、自らの名前を取って「ヤコブソン器官」と名付けた。この器官は、科学者たちの間で長年、言語などのコミュニケーション・ツールが発達した人間には存在しないと言われていたが、1987年頃、デービッド・バーライナー博士によって発見され、現在、鋤鼻器官と一般的に呼ばれている。 Ludwing Lewin Jacobson

チエミとヘップバーン

Eri04    江利チエミとオードリー・ヘップバーンのツーショットといえば不思議に思うかもしれない。デビューは同じくらい(ヘップバーンが1948年、チエミが1949年)で活動期間もほぼ同じ。年齢は、チエミのほうが8歳も年下である。チエミは1963年に東京宝塚劇場で「マイ・フェア・レディ」のイライザを見事に演じ大評判だった。ちなみにヒギンズ教授は高島忠夫。この年、チエミは紅白の司会と第1回「ゴールデン・アロー賞」の大賞を受賞している。

スウェーデン体操

   19世紀初頭に、スウェーデンの生理学者ペール・ヘンリック・リンク(1776-1839)によって創始された徒手体操。明治末期以降、長らく日本の学校体操の根幹をなした。イムナスティーク、Swedish Gymnastks

2016年3月14日 (月)

勝って兜の緒をしめよ

250pxujiyasu_hojo   東郷平八郎が日本海海戦での大勝利の後、「古人曰く、勝って兜の緒をしめよ・・・」と訓示したのは有名だが、ここで言う古人とは北条氏綱(1487-1541)のこと。氏綱は1541年に死去したが、後を嫡男の氏康が継いだ。若い氏康の器量を心配し、5か条の訓戒状を伝えていた。その一つが、「いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし」。1545年に河越城の戦いがあった。氏康は少数の兵で河越城に夜襲し勝利した。北条綱成は半年余りの籠城戦をよく耐え抜いた。このとき綱成は「勝って兜の緒を締めよ、と先代の氏綱様もおっしゃっています」と追撃兵を圧しとどめたといわれる。

生活派歌人・西村陽吉

    西村陽吉(1892-1959)は日本橋の東雲堂書店に勤め、店主の養子となる。牧水、啄木、哀果、茂吉、白秋などの歌集の出版を手がけた。やがて社会主義思想に基づく、生活派短歌への道を歩む。「都市居住者」、「街路樹」。「第一の街」などの歌集を出した。孫の西村亜希子(1943-2007)は長嶋茂雄夫人。

四五人の女工が隅にかたまりて、
弁当食ひぬ、
昼の工場。

どんよりと曇りてさむき
日本の
貧しき冬となりにけるかな

日本の青年われは
椅子に座し煙草を吸ひて
ロシアを憶ふ

アットゥシ織

Photo   アイヌの伝統織物。厚司織ともいう。北海道に自生するオヒョウや科の木などの内皮の繊維を居坐機で織った、厚地の織物。普段着は無地で、晴れ着に衿や袖、裾に魔よけの模様を刺繍やアップリケでほどこしてある。

ういろう

Aoyagiuirou  名古屋銘菓として知られる羊羹に似た菓子を「ういろう」という。名古屋の「小倉ういろ」を売る餅文という店は、万治2年(1659年)の創業という。もとは「外郎餅」と呼ばれていた。「外郎」という薬に似ていることからそういわれた。外郎薬とは、江戸時代に小田原や京で売り出された、たん切りの薬であった。そのなかの透頂香(とうちんこう)という細長いものの形に似せて作った菓子が外郎餅として売り出されたのである。

  もともとは「外郎」の語は、中国の官名にもとづいている。元の礼部(天地の神の祭りや宮廷の葬儀を扱った役所)員外郎という役にあった陳宗敬が、元滅亡後の室町時代、足利義満の頃に来日し博多に移住し医術を業として、陳外郎(1322-1395)と名乗り、外郎薬を創製した。子孫も代々外郎と名乗り、のち宇野氏と改名した。

市川団十郎(二代目)が激しい咳に悩まされたときに服用したところ、たちどころに咳が止まったという。感激した団十郎が、この話を歌舞伎にして上演したことで有名になった。同時に外郎は、渋い薬の口直し用の薬として、江戸時代の当主が小田原に移り、透頂香と名付けて売り出した。菓子の「ういろう」はこの薬の名に由来するといわれている。(武光誠「歴史から生まれた日常語の由来辞典」、エポニム)

マルクス『告白』より

Oshoonkarlmarx  カール・ハインリッヒ・マルクスはドイツの経済学者。1883年のこの日、64歳で死去した。マルクス自身は「わたしはマルクス主義者ではない」と言ってたのは有名な話。たいへんな読書家で、毎日大英博物館に通い、朝の9時から閉館になる7時まで文献を読み続けた。これはマルクスの娘ジェニーとラウラが出した問いに答えたものである。

あなたのすきな徳行は             質朴

あなたのすきな男性の徳行は         強さ

あなたのすきな女性の徳行は         弱さ

あなたの主要性質                 ひたむき

あなたの幸福観              たたかうこと

あなたの不幸観                        屈従

あなたがいちばんきらう悪徳         卑屈

すきな仕事             本食い虫になること

すきな格言 非人間的なものは私の関知しないところである

すきな標語                 すべてをうたがえ

(Karl Heinrich Marx、3月14日)

昭和金融恐慌と片岡直温

250pxbank_run_during_the_showa_fina    昭和2年3月14日の衆議院予算委員会で、片岡直温(1859-1923)大蔵大臣が「渡辺銀行が本日、休業のやむなきに至りました」と発言した。若槻礼次郎内閣は、この年の1月、日本銀行がかえている震災手形を政府が肩代わりするという震災手形処理法案を持ち出したが、田中義一のひきいる野党政友会は反対していた。この発言がきっかけとなり、市民は各銀行に預金をひきおろしに殺到したため、金融恐慌となった。

 

 

2016年3月13日 (日)

橋元正一が見た映画、読んだ本

   橋元正一(はしもと まさいち、1896-1965)。ネットで検索しても、人名事典で調べても収録される人物ではないが、「丹波・北摂ゆかりの50人」(神戸新聞社)に見える。阪神間の図書館員のなかでは生前からレジェンドと噂され「生涯に書籍3万冊、映画1万本以上見た生き字引」といわれた。現三田市大川瀬の農家の長男。高小卒後、19歳の時に神戸市立図書館司書となり、35年勤める。図書選定のほか文化事業のための資料提供などに尽力。傍ら映画研究の会を組織、多くの評論を発表し、レコードコンサートやラジオを通じて音楽解説にも当たった。音楽にも相当に詳しかった。学歴がないので館長になれなかったが、兵庫県文化賞を受賞している。「本・映画・音楽の生き字引」とある。生前にお会いすることはできなかったが、神戸市立図書館にはレコードがたくさん所蔵していることが有名だったので、レコードの整理について教えを乞うたことがある。司書の大先輩として、本・映画の数で超えることを目標にしよう。橋元さんが見た映画1万本とは相当な数だが、現在のように多チャンネル時代で、ツタヤでレンタルできる時代であれば1万本はそれほど気の遠くなるような数ではない。神戸新開地の映画館で無声映画をたくさんみた世代であろう。現在インターネット・ムービー・データーベースに掲載されている映画は71万本くらいであるであるが、橋元がみた映画をすべてみることはできない。書籍3万冊(もちろん精読)のほうがハードルは高いかもしれない。現代では立花隆が10万冊、渡部昇一が15万冊、谷沢永一が20万冊の蔵書があるといわれている。しかし読書量は単に数字では表せない。橋元が図書館で読んだ本3万冊とはどんな内容だったのだろうか。

画数の多い四字熟語

   魑魅魍魎(ちみもうりょう)が72画。意味は「さまざまな化けもののこと」。鬱鬱葱葱(うつうつそうそう)が82画。意味は「樹木が鬱蒼と茂るさま」 。羸顛劉蹶(えいてんりゅうけつ)。意味は蠃は秦の姓、劉は漢の姓。つまり秦の国も漢の国も、結局は滅びたことをいう。

  では日本人名に使用されている漢字の中で画数が最も多い人は誰か?日本人として初めて南極に上陸した探険家、白瀬矗(しらせのぶ)、俳優の山本麟一(やまもとりんいち)の「矗」「麟」は24画。

田捨女

雪の朝二の字二の字の下駄のあと

   江戸時代の貞門女流六歌仙の1人、田捨女(1633-1698)がわずか6歳で詠んだ句。10歳飲時には、たまたま遊び行った親戚の酒屋に菊という女性が、お酒一升を買いに来た。ところが店に誰もいなかったため捨女は、傍にあった帳簿に「酒一升 九月九日 使い菊」とみごと俳句調に書き留めたという逸話も残っている。父・田季繁の没後、兄が儒者になったため捨女の夫・季成が継ぐ。北村季吟らに和歌と俳諧を学ぶが、41歳で夫と死別。5、6年後、京都で仏門に入り妙融尼と号し、高僧・盤珪永琢に帰依、禅道に励む。姫路・網干浜田で晩年を過ごした。

2016年3月12日 (土)

英単語学習帳

Ke_1s  英語の上達には英単語の暗記は欠かせないがコツコツとやり続けるのも地味で根気がいる。簡単な日本語も英語でなかなか言えない。「おなら」「屁」を意味する英語の表現は少なくとも、fart のほか260以上もあるそうだ。「脇の下」は英語で、armpit、「腋臭(わきが)」は、armpit odor。「腋毛」は、underarm hair。足指の魚の目、たこは、corn と言う。

loofah         へちま、風呂のスポンジ

adipositas     肥満

adrenaline    アドレナリン

detergent     洗剤

enema          浣腸

suicide         自殺

spit                 つば

gray hair          白髪

frostbite           しもやけ

seasickness      船酔い

hiccup                しゃつくり

coward               臆病者

take a paid vacation  有給休暇を取る

bachelor  独身男性

bachelorette  独身女性

pant       息を切らしてハアハア言う

purse     小銭入れ、がま口

wallet    札入れ

desinfection     消毒

dominant hand  利き手

vegetarian    菜食主義

dismissal  解雇 

accounting  会計

paralle lines   平行線

base          基地

reputtion    評判

jug            水差し

respond       答える

elocution      朗読法、エロキューション 

tragedy        悲劇

rehabilitation  社会復帰

no vacancy    空き部屋なし(満室)

safety first    安全第一

itchy             痒い

sabotage       破壊活動

diversity        多様性(ダイバーシティ)

palpitate        胸がどきどきする(パルピテイト)

falter            ためらう

offer             提供する

retraction      撤回

respiration     呼吸

incoherent     支離滅裂な

postmortem inspetion  検死

obession       強迫観念、オブセッション

nervous breakdown  神経衰弱

nasolabial fold   ほうれい線

diaper          おむつ

anxiety         不安

admission     入学

particular      こだわる、うるさい

shoplift         万引きする

destruction of evidence  証拠隠滅

sesame         セサミ(ごま)

firework         花火

impudent       厚かましい、生意気な

blunt            ぶっきらぼうな

confine         制限する

left-handed    左利き

blood donation 献血

fish story      ホラ話

ransom        身代金

bankruptcy  破産

density       密度

immunity    免疫

futurology   未来学

areola         乳輪

medicine     内科

surgey    外科

boredom     退屈

contempt    軽べつ

rebroadcast   再放送

negotiation    交渉

food poisoning  食中毒

book report    読書感想文

natural history  博物学

scorching       ひどく暑い

emotional      感情に動かされやすい

rumor           噂

whetstone     砥石

frame           額縁

spendthrift    浪費家

semantics      意味論

constitution    憲法

spin  of           派生させる

rolling stone   定職のない人

anti-itch creams  かゆみ止め軟膏

navel             へそ

sleeping pill    睡眠薬

aspirin           アスピリン

cataract        白内障

glaucoma       緑内障

cough drop    咳止めのドロップ

eye drrop      目薬

prescription   処方箋

astrologer     占星術師

transportation  輸送

emaciate       やせ衰えさせる

nasal hair cutter  鼻毛カッター

nail clipper     爪切り

naughty         エッチな

additional       追加の

crutch           松葉杖

phimmosis      包茎

tripod            (カメラなどの)三脚

visor              (帽子の)つば

eyelet             (靴などの)ひもの穴、はと目

bus depot       長距離バスの発着所

burn-sides      バーンサイドひげ

ventriloquism   腹話術

expendable     消耗品

serum             血清

elder care service 高齢者介護

surgical mask   医療用マスク

not nave enough sleep  寝不足

poopoo   うんち(幼児語)

peepee   おしっこ(幼児語)

osteopathy  オステオバシー、整骨治療学

bugle      ラッパ

reindeer   トナカイ

Jack in the box  びっくり箱

sculpture   彫刻

scorpion    さそり

invoice       荷札

diabetes mellitus  糖尿病の学術名称、ダイアビータス・メリタス

pneumonia    肺炎

hemoptysis   吐血

intravenous   静脈の 点滴

coma            昏睡

gastrointestinal medicine  消化器内科

palliative care   緩和ケア、パリアティブ・ケア

pivot            回転軸、ピボット

紅茶とビートルズだけじゃないイギリス

    イギリスの面積は日本のおよそ3分の2くらいだが、グレート・ブリテン島(21.9万k㎡)と本州(22.7万㎡)を比べるとほぼ同じくらいである。イギリスも日本と同じような島国でともに王室・皇室を上にいただく国であり、歴史も似ている。しかし緯度がかなり違うことや山地が少ないこともあって、気候や地理的条件はまったく似ていない。

   西暦2世紀ローマ皇帝ハドリアヌスのときローマ属州ブリタニアと呼ばれたが、5世紀の初めにローマが撤退すると、アングロサクソンが侵略する。日本に仏教が伝来したのは6世紀(公伝は552年説と538年説がある)といわれるが、ブリタニアにキリスト教が伝来したのも、やはり6世紀頃である。596年にアウグスティヌスが40人の修道士とともにやってきたとされるが、それより前に伝来していたともいわれ、西暦563年という説がある。バッキンガム宮が1703年といわれ、慶長天守が完成したのは1607年のことで、江戸城はバッキンガムより100年ほど古いことになる。

ジョージ・エベレスト

09003_1_300px    グリーンランドにヌナタック・ウエムラ峰(標高2540m)がある。1984デンマーマ政府が冒険家・植村直己の快挙に敬意を表して同峰を名付けた。マゼラン海峡やベーリング海峡、間宮海峡など地名にはゆかりの人名が付けられることが多い。乃木坂46がテレビで歌っていると乃木希典を思いだす。

   ヒマラヤ山脈の世界最高峰エベレストはインド測量局長官ジョージ・エベレスト(1790-1866)に因んでいる。だが本人は現地名を尊重するという考えから、そのような命名を快く思わなかったという。近年ではチベット語でチョモランマ(「大地の母」の意味)、ネパール語でサガルマータ(「世界の頂点」の意味)と呼んでいる。(George Everest,Chomolungma,Sagamatha,Nunaat Uemura)

2016年3月11日 (金)

印象派が描いた歓楽街の娼婦たち

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   夜のモンマルトルの象徴といえば、「赤い風車」の明かりであろう。ナイトクラブ、パル・デュ・ムーラン・ルージュが、酒と踊りであらゆる階層のパリっ子を魅了したのは19世紀末。クリシー大通りの「レーヌ・ブランシュ(白の女王)」という安ダンス・ホールの跡地、ブランシュ広場に、「赤い風車」(ムーラン・ルージュ)が開店したのは1889年のことであった。1891年以来、入口のロビーは絵のギャラリーとなっていた。そこでは大勢の客が酒を飲んだり、ぽんびきや娼婦、踊り子、おとりの警官などがたむろしていた。内部は、見物席に囲まれた大ダンスフロア、大きなバー、そして道化師や歌手、エキゾチィックな踊り子、アクロバット師、にぎやかなカンカン踊りの一団など、一風変わった多種多様な芸人たちが毎晩出演する舞台になっていた。

   ムーラン・ルージュには、客たちが座って休むことのできる、小さなテーブルと椅子をおいた中庭があり、それを囲むように屋根つきのプロムナードが広がっていた。庭の真ん中を占めていたのはオーケストラ全員がなかに入れるほどの巨大な張りぼての象であった。これはこの年の万博でブームを呼んだチュニジア館のアトラクションにヒントを得たものである。そのまわりに客を楽しませるために猿が鎖につながれていた。また人々は、モンマルトルのバーで最もよく飲まれていた「緑の妖精」つまりアブサンと呼ばれたアニスシードの酒を飲み過ぎなければ、ロバに乗って庭を回ることもできた。官能の悦びを求める人のための標識である屋根の赤い風車は、木製の模型であり、本物の風車が数多く点在していた緑豊かな丘の村であったころのモンマルトルの、そう遠くない昔を思い起こさせた。ムーラン・ルージュを開店したシャルル・ジドレールは、クリシー街のダンス・ホール「エリゼー・モンマルトル」や「カジノ・ド・パリ」といった競争相手から常連客を呼び寄せるために、あり余るほどの娯楽を用意することにあらゆる手をつくした。

   夕べの調べは、オッフェンバックとオリビエール・メトラの音楽によるサーカスなみの喧騒であり、トロンボーン、シンバル、ドラムによって大音響で演奏された。世紀の変わり目ころには、踊りの流行はマティッシュやケーキウォークのようなものになっており、バンドは聴衆を馬鹿騒ぎに駆り立てたので、外国からの客は驚いて立ち去るほどであった。ある偏見のないイギリスの雑誌記者は「ここではどのような欲情も抑える必要はない。わめき声と馬鹿騒ぎがある。女たちは男たちの肩にすがってホール中引き回されている。酒を注文するすさまじい叫び声がある」と記している。

   しかし、ロシア、イギリス、ルーマニア、南アメリカなど世界中からやってくるムーラン・ルージュの男の常連客にとって一番の魅力は、小粋で性道徳にとらわれない女たちであった。性取引はパリの周辺では盛んであった。悪徳はナイトクラブや娼家だけの商売ではなかった。外国商人たちは娼婦にするパリの娘を求めた。ヨーロッパ最大の肉体市場と考えられていたムーラン・ルージュは、表面は華やかでうわついて見えたが、踊り子兼娼婦といううす汚れた仕事に携わる女は、白人奴隷市場の手配師に誘拐されてきた者が多かった。

 モネやルノワールもプージヴァル近郊にある新興行楽地グルヌイエールを描いている。ここは水上カフェなのだが、女たちは金髪に染めて、胸をつきだし、尻をふくらませ、派手な衣装を着ている。グルヌイエールとは「カエル」という意味で、夜の獲物を探しにここにやってくる娼婦なのである。当時のポスターには水着の女性が描かれている。

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(引用:「ロートレック」同朋舎出版、1990)

有松絞り

Lrg_10346474  愛知県有松地方(名古屋市)で生産される木綿絞りの総称。江戸時代に有松の竹田庄九郎が始め、尾張藩の保護と奨励を受け、東海道の街道筋の土産物として広く知られるようになった。近年はおもに上品でお洒落な絞り浴衣の生地として用いられている。2016年NHKドラマ10「愛しくて」でヒロイン小夏が絞り染め作家として伝統工芸の有松絞りを新しい意匠で海外に紹介するという設定で紹介され注目される。

啓蒙思想と照明器具の発達

   17世紀後半にトマス・ホッブズやジョン・ロックが展開した経験論的な認識論や道徳哲学や政治思想が、西欧における啓蒙思想の幕開けとなる。18世紀になるとイギリスからフランスに伝播し、イギリスより激しいものとなって発展・普及し、フランスを啓蒙思想の中心地へと押し上げる。主な啓蒙思想家はモンテスキュー、ルソー、ヴォルテール、ディドロなど。啓蒙思想とは原語で英語Enlightement、仏語Lumieres、独語Aufkiarungとあるように、光で照らされること、「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」である。自然の光(ラテン語 lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。当時、西欧では書物に親しむという行為が、暗闇に光がもたらされるという考えが一般に認識されるようになってきた。つまり印刷術の普及により書物が大量に生産されるとともに、ランプなどの照明器具の発達も見逃すことはできない。イギリスのジョージ・フリードリヒ・ケルスティング(1785-1847)の絵画には若い女性がランプの明かりで読書している姿が描かれている。当時流行の啓蒙思想を読書によって暗喩したと思われる。電気照明が出現するのは19世紀を待たなければならない。

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美術の起源

   人類学・考古学によれば、アフリカで生れた現世人類は、やがてアフリカを出て、アジア、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカへと世界各地へ広がっていった。この何十万年という長い歳月のうちに人類は石を用いて道具を作りはじめた。この時代を考古学では旧石器時代と呼んでいる。この時期の初期・中期には石を打ち砕いて形どったさまざまな打製の道具が作られたが、その中には早くも左右均等を保った美意識によって形どられたものが見られる。人類の造形活動はこのように道具を用いるようになったときにはじまったと見てよいが、そこでは未だ純粋な意味での美術作品、すなわち絵画や彫刻のようなものは見られず、原始人の造形が現代人の美的観賞に価するようになるのは旧石器時代後期、紀元前3万年から前1万年にかけてである。1879年北スペインのサンタンデル県のアルタミラ洞窟で動物を描いた壁画が発見され、続いて1940年にはフランスのラスコー、ロウセル、フォン・ド・ゴーム、二オー、レ・トロア・フレールやほかでも、同じような画が発見された。これが人類の残した最初の美術と考えられ、これらを総称して一般にフランコ・カンタブリア美術と呼ぶ。この期に残されている造形が如何なる意味や目的によって制作されたものか定かでないが、狩猟の成功を祈願するためや、生存ための呪術的行為とする見方が強い。(参考:前田正明「西洋美術史」武蔵野美術短期大学)

2016年3月10日 (木)

紅茶の輸入とイギリス三角貿易

  18世紀イギリスでは奴隷貿易を軸に、自国と西アフリカ、カリブ海を結ぶ三角貿易を形成して、大きな利益をえた。19世紀には、綿織物をインドへ、インドのプランテーションで栽培されたアヘンを清へ、そして清の紅茶・陶磁器・絹などをイギリスへ輸出することで、大幅な貿易黒字を実現した。

   カティー・サークは、1869年に中国からの新茶輸送を目的に建造されたティー・クリッパー(快速帆船)である。約60トンの茶を積み、上海ーロンドン間を喜望峰経由で約110日間で航海した。

  1849年に航海法が廃止されて以来、利益の多い新茶の輸送にはアメリカの帆船も参加して、輸送の速さを競うティーレースが展開された。紅茶がイギリス庶民の飲み物として定着するにつれて、大量の中国茶の輸入がイギリスのアジアにおける「三角貿易」の行方を左右して、アヘン戦争の間接的な原因にもなったのである。

女人禁制

   真言密教の高野山は、開創当時から明治5年まで女人禁制であり、女性の立ち入りが厳しく制限されている。入山の女人禁制は高野山に限らず江戸時代ほとんどの山で守られていた。この禁を破って登拝した女性が石と化したといわれる巫女石、姥石などがある。対して女性の参詣が自由であった奈良の室生寺は「女人高野」とよばれ、女性の入山が認められた。真言密教である室生寺がなぜ女性に開かれた寺院となったのか。それは徳川綱吉の生母、桂昌院の庇護によるものといわれている。

   女人禁制の理由については、一般には、女性の出産や月経の穢れのためとされている。しかしこの他にも、村落社会の行事における男子中心主義が山岳修行に適用されたとか、男性の修験者が山の女神のもとで修業するために世俗の女性を忌避したなどの解釈がなされている。

ミーハーの語源

   ミーハーとは、流行などに熱中しやすい人たち。程度の低いことに夢中になっている女の子を軽蔑して言う言葉。昭和初期の流行語で、そこから軽い若者風俗を総称した「ミーハー族」という言葉も生まれた。ミーハーの語源には諸説ある。第1は「みいちゃんはあちゃん」の略。昔の女の子の名前には「みよちゃん」や「はなちゃん」など「み」や「は」が多かったことから。第2は音階のドレミファとする説。第3は映画「稚児の剣法」(1927年)でデビューした林長二郎(後の長谷川一夫)がたちまち若い女性の間で人気となり、彼女らが好きな「みつまめ」と「はやし」の頭文字をとつて「ミーハー」が生まれたとする。「ミーハー」の語源が長谷川一夫という説は近年有力視されている。しかし「ミーちゃんハーちゃん」という言葉はそれ以前からあって、浅草あたりでたとえば「ミーちゃんハーちゃんの好きそうな映画だ」といえば、低級な甘い映画のことを意味するようになった。

カテゴリー整理学

     手許に2010年3月10日の朝日新聞がある。「核密約歴代首相黙認」という大見出し。「トヨタ、一般職の採用ゼロ」「有吉九段、1000敗」「上越新幹線でもトラブル」「皇太子ガーナ訪問」これらバラバラの記事もいまは検索技術が上手であればネット情報を簡単に入手できる。むかしであれば、ファンリングやスクラップ、あるいはカードなどで自分で情報を整理していたものである。現代人は神経症(ノイローゼ)というはっきりしない病名と無縁ではない。毎日、実にさまざまな情報に振り回される。その情報は自分にとって直接関係のあるものもあるだろうが、ほとんどは無縁の情報である。しかしながら無縁の情報でも癒しの効果もある。贔屓の野球チームが勝てば、気分は明るい。好きな選手の打率が上がればうれしい。こういったあまり意味のない情報を一切遮断して、テレビも見ず、人とのつきあいもせず、庭の花と木をめでて、季節のうつろいを感じる、という生き方こそ老後にふさわしいのだと思う。しかし現代人は退屈よりも混沌のなかにこそ喜びを見つける。加藤秀俊も「現代文明は、おしゃべりのとまらない文明である」と書いている。(加藤秀俊「整理学」中公新書)

    このブログ記事も一つ一つを読むとまったくまとまりがなくバラバラである。そもそもネタに分野などあるはずはない。興味のあるこを書くだけである。系統的、体系的に書くことほど辛い作業はない。ひとつひとつ記事を積み上げて、カテゴリーで整理していくと、なんとなくまとまっていく。ブログとは実に便利な雑記帖である。

佐渡の日

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     3月10日は「佐渡の日」。佐渡観光協会が1998年に制定した。

    佐渡は流人と金山の島として知られる。寺が約250、神社が約300あると言われる古刹・古社の島佐渡は、島流しの地だった。島流しといってもむかしは政治犯や思想犯が多かった。文覚上人、順徳天皇、日蓮上人、京極為兼、世阿弥など。さて、この島が一変するのは近世初頭、金銀などの鉱物が発見されるようになったためである。慶長3年、上杉景勝が豊臣秀吉に佐渡の黄金山から運上金を納めた記録がある。関ヶ原の戦いの後、豊臣の支配下にあった佐渡金山は徳川の直轄地となった。慶長6年、大久保長安(1545-1613)は佐渡鉱山の支配を任ぜられる。相川鉱山の全盛期は慶長末から寛永の中頃にかけて、年間平均金100貫、銀1万貫を採掘したといわれる。だが長安の死後、不正が発覚し大久保家は改易となった。その背景には本多正信・正純ら文吏派と大久保忠隣の譜代武功派の対立があったといわれる。

フルヘンシオ・バティスタ

Batista     バティスタと聞くとプロレスラー、野球選手、サッカー選手を思いうかべる人のほうが多いかもしれない。中南米ではありふれた苗字のようであるが、ここではフィデル・カストロによってゲリラ戦で打倒されたキューバ大統領フルヘンシオ・バティスタ(1901-1973)のことである。出自はしらないが、容貌からムラート、中国系先住民か。農業労働者ののち軍医となり、1933年の蜂起で陸軍の指導者となり、大統領に就任した(1940-44)。1944年の選挙で敗れたが、1952年3月10日クーデターが成功し、政権につき親米独裁政権として恐怖政治をしいた。1959年、カストロの率いる革命軍に敗れ、ドミニカに亡命したのちスペインで没した。(Fulgencio Batista,Fidel Castro)

2016年3月 9日 (水)

偏奇館炎上

   永井荷風(1879-1959)、本名・永井壮吉は、明治36年から41年にかけての米仏滞在経験後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表し、つねに洋服を着用したハイカラ趣味、モダンな個人主義者としてのイメージがある。しかしながら家庭環境は漢詩文化あるいは儒教の伝統に属していたことも注目すべきである。

   父は永井久一郎、母は恒子。久一郎は明治4年にアメリカに留学しその後明治政府に仕えていた。帝国図書館の前身である書籍館に勤めていたこともある。鷲津恒子は漢学者鷲津宣光の次女。荷風は「十九の秋」で次のような回想を記している。

子供の時分、わたしは父の書斎や客間の床の間に、何如璋、葉松石、王漆園などいふ清朝人の書幅の懸けられてあつたことを記憶している。父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交を訂めて居られたのである。

   つまり荷風は新旧の文化に浸る良家の出であった。中国の伝統文化はもとより、江戸趣味、ゾラ、モーパッサンなどのフランス文学に早くから親しんだ。

   斉藤ヨネ、内田八重(1880-1966)との短い結婚生活のあと、独身となった荷風は、大正9年には麻布区市兵衛町1丁目6番地の百坪の木造洋館「偏奇館」に移転した。偏奇館とはペンキ塗りの洋館だったことをもじってわたむれにつけたという。しかし、その偏奇館も昭和20年3月9日の東京大空襲で全焼。蔵書すべてを失った。「人生の至楽は読書に在り」という荷風にとって67歳にしてはじめてなめた辛酸であったであろう。

2016年3月 8日 (火)

ジャンヌ・ダルクの指輪の謎

Photo_4     神の声にうながされ、片田舎から出てきたひとりの少女ジャンヌ(1412-1431)がオルレアンの町を解放したが、わずか1年ののち、異端者として処刑されたという話は誰でも知っている。しかしジャンヌ・ダルクの初期の肖像は15世紀後半のミニアチュールにも見られるものの、死後350年間は歴史上、ほとんど忘れられた存在だった。ドイツの詩人シラーが「オルレアンの少女」を書き、ナポレオンがフランスの国民意識の高揚を促すためにジャンヌ・ダルクという国民的英雄を讃えるようになったのである。

   先ごろロンドンの競売でジャンヌ・ダルクの指輪が売られたという。買ったのはフランスのある財団で24万ポンドで落札した。この指はジャンヌが身に着けていたもので、のちにイギリス王のヘンリー7世が所有していたとされる。指輪は実に585年ぶりにフランスに戻ったこととなる。それにしても貧しい農家の19歳の娘がどうしてこのような高価な指輪を持っていたのかは不思議である。(Jeanne d'Arc,Schiller)

2016年3月 7日 (月)

喫茶去(きっさこ) 茶席の禅語

   趙州(じょうしゅう)禅師の言葉。もう下らない議論はやめにして、さあ、お茶でも飲みに行こう。口先だけの議論より、お茶を飲むという日常の行為、ごくありふれた日常茶飯事の中にこそ真実はある。

去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はなく、「お茶を一服如何ですか」という程の意味に過ぎない。「去年(こぞ)」のように「こ」と読む。

烙印の女たち 芳川鎌子

Photo     大正5年から9年ごろにかけて、新聞はしばしば恋愛事件を報じた。大杉栄・神近市子の日蔭の茶屋事件(大正6年)、芳川伯爵若夫人の千葉心中事件(大正6年)、白蓮事件(大正10年)など、世間の好奇心をくすぐるような形でそれらの事件は報道された。それは恋愛問題や結婚問題について、婦人が独立の地位を要求し、男性の所有物から抜け出そうとする苦闘だったといえよう。そして「自由主義恋愛」という言葉がどこからともなくこの時代に生まれた。

   大正6年3月7日、千葉駅で若い女が列車に飛び込んだ。同行の男は女が死んだと思い、土手によりかかり短刀で喉を突いて死んだ。男は倉持陸助といい、芳川顕正伯爵のお抱え運転手、女は芳川顕正の娘で曾袮寛治の婦人の芳川鎌子であった。鎌子は重傷ながら一命をとりとめる。身分違いの男女が深い恋に落ち、情死にまで発展したことに世人は驚かされた。4月には退院した鎌子は麻布の本邸にもどったが、世間から逃れて下渋谷に隠棲した。世間は冷たく「姦婦鎌子ここにあり」「渋谷町民の汚れなり」などと板塀に書かれた。また彼女が鎌子だとわかると御用聞きまでが寄りつかなくなったという。正式に寛治と離婚して、芳川家からも除籍された鎌子は、青山の次姉邸などをへて鎌倉の別荘に住む。しかし大正7年10月には出沢佐太郎という運転手と再び駆け落ちしてしまう。出沢は倉持が心中する晩に涙しながら酒を飲んだ同僚であった。その後、無理やりに連れ戻された鎌子はうつ状態となり、自殺するおそれもあるので、やむなく出沢との結婚を許した。芳川家は鎌子に完全な「勘当義絶」をして一切仕送りも中止した。しかし生活苦と病気により、大正10年4月、鎌子は横浜の南吉田町で亡くなる。享年29歳。芳川鎌子はスキャンダラスな姦婦として世の指弾を浴びたが、爵位より愛を命がけで選びとった大正の自由主義恋愛を代表する女性といってよい。

北丹後大地震と北村兼子

    昭和2年3月7日午後6時27分、京都府北部の北丹後地方にM7.3の大地震が発生した。地震発生時刻が夕食時と重なり、台所や風呂などの薪が燃えていたため、倒壊家屋から火災が発生した。丹後縮緬の産地で知られる峰山町(現京丹後市)では家屋の97%が焼失、人口に対する死亡率は22%と最大の被災地となった。

Img_0005    このとき新聞社やマスコミは被災者救援のキャンペーンを行なった。朝日新聞社は藤木九三を班長として、救護班を組織し、8日午前、被災地に急行した。この中に入社3年目の婦人記者・北村兼子(1903-1931)もいた。北村はこのときの様子を「婦人4月号」に次のように記している。

    峰山へ来て峰山の印象を残しているものは浴場と裁判所に近き或一軒が奇跡的に残っているばかり、家は必ず倒れている、倒れたら必ず焼けている、焼けたあとには必ず死体がある。風は吹くごとに必ず雨か雪をもつて来る、雪のつもった中を倒れた家の屋根を攀じ電線を手繰りながら、下りたら後から「北村さんがやった!」と叫ぶ看護婦がある。何をやったかと足許を見たらまア!、私の靴は半身焼け残った死体の腹部を踏んだのであった。赤ら顔で面相はそのまま残っているが、胴体は焼けて軽石のように穴だらけ。それとも知らないで私は、とんだことをしてしまった。済まない!しゃがんで合掌した。覚えていたお経の断片を唱えてまた進んで行く。

2016年3月 6日 (日)

丿貫(へちかん)

 安土桃山時代の茶人。京都の山科に住み、手取釜一つで茶を楽しんだという。茶の湯を村野紹鷗に師事したと伝えられ、北野大茶湯にも参加した。また利休を招いて茶事を催したともいい、侘び茶人の代表のように伝えられている。生没年不詳。

 

 

新聞閲覧所

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    世界で最初に新聞と呼べるものが登場したのは17世紀でドイツに現れる。イギリスでは1695年に特許閲覧法が廃止され、新聞が自由に刊行されるようになった。オックスフォードにコーヒー・ハウス・ジェイコブスが創られたのが始まりで、1680年にはロンドン市内だけでも3000軒のコーヒーハウスがあったという。17世紀のイングランドのコーヒーハウスは紳士・商人などの身分の違いにかかわりなく、すべての人に開かれた図書館のような場所だった。ここで一番読まれたのは、定期刊行物で、新刊書も革新的なテーマの本は熱のこもった議論がかわされた。わが国においては、1864年に最初の新聞縦覧所が設置され、1870年頃から普及した。

一番町教会と二松学舎

   明治30年、国木田独歩と榎本治子が居住していた麹町一番町の家屋の番地の詳細は分からないが、付近には一番町教会やニ松学舎があった。西洋のキリスト教と東洋の漢学塾が並んでいるところが、開化期の明治らしくて面白い。

    植村正久(1858-1925)は、安政4年12月1日(太陽暦では1858年1月15日)、上総国山辺郡武謝田村に生まれる(一説に東京芝露月町)。父は植村禱十郎(1832-1889)、母は植村てい(1840-1887)。正久はその長男で、幼名を道太郎という。明治4年、横浜の修文館漢学科に入るが、翌5年に宣教師バラ(1832-1920)の私塾バラ学校に入学。明治6年に横浜の日本基督公会で、バラより受洗する。ブラウン塾に入学。明治10年、ブラウン塾が東京に移り、築地神学校と合併して東京神学校となる。9月入学する。10月、日本基督一致教会が成立。明治15年、奥野昌綱を通じてフェリス女学校の教師の山内季野(1858-1930)と結婚。明治20年3月6日、番町一致教会が成立(後の一番町教会、富士見教会の前身)。番町一致教会は最初麹町区一番町18番地(通称厩谷)にあり、ささやかな借家で、椅子が並べてあった。その後、明治21年に梨本宮邸の真向かいの麹町一番町48番地に新築、移転した。そのころ憲法の改正が行なわれて、明治24年1月から実施され、日本基督一致教会が日本基督教会と改称され、この時から一番町教会となったという。

   一番町教会の付近には、漢学塾の二松学舎があった。麹町区一番町403番地(:現・千代田区三番町6番16号)。明治10年10月、三島毅(三島中洲)が設立した。黒木欽堂、入江雨亭、夏目漱石らはここで漢学を学んだ。

   ともかくも独歩にとって麹町一番町はゆかりの地で、一番町教会において明治24年1月4日、植村正久から受礼を授けられ、また佐々城信子との結婚式の司式を行なったのも植村であった

パール・バック『大地』

180pxpearl_buck    パール・バックの「大地」(The Good Earth)は、「大地」、「息子たち」、「分裂した家」と3部作をなす壮大な.る大河小説である。「大地」は、1931年に出版され、ピューリッツァー賞を受け、1936年にはノーベル文学賞を受賞した。「大地」は中国では、あまり読まれていないが、日本では昭和13年にはじめて翻訳されたとき1年で60万部売れたといわれており、現在でも世界文学全集には必ずといってよいほど収録されている。

  バックは娘の病気を治すためにお金が必要としたので、そのために小説をかこうと決心したという。もっともアメリカ人らしいアメリカ人の一人として、人生の不幸を諦めたりしないで、お金の力を借りて強く乗り越えようと決意したのである。1973年3月6日に死んだ。(Parl Buck)

 

日本初の映画興行は大阪で

History_4    日本で最初の映画興行は、1897年3月6日、東京神田の錦輝館といわれているが、稲畑勝太郎(左画像 1862-1949)が同年2月、大阪ミナミで上映している。これはリュミエール兄弟の発明したシネマトグラフといわれるスクリーンに映すもの。撮影者はリュミエールの技師ジュレールで、京都の歌舞伎俳優の所作事を撮った。なおホトトギス稲畑汀子(歌人)の亡夫は勝太郎の一族、稲畑順三(稲畑産業社長)。稲畑より1年前、1896年11月25日、高橋信治が神戸の神港倶楽部で上映しているが、これはエジソンのキネトスコープで1人づつ上から覗くものものだった。日本に早く伝わったのはエジソンのキネトスコープ(1896年11月)のほうで、カメラも輸入されて、1898年頃には全国にも数人の撮影者がいたらしい。なかでも東京の小西写真機店の浅野四郎は1898年に短編映画「化け地蔵」「死人の蘇生」を撮影し、1899年6月20日に歌舞伎座で公開した。映画興行者の駒田好洋は、当時話題になっていた稲妻強盗の逮捕を芝居にして柴田富吉に撮影させた。また柴田は1899年、銀座街頭風景や花柳界の名妓の舞踊を撮影している。歌舞伎「紅葉狩」は現存する最も古い日本映画である。

2016年3月 5日 (土)

山宣の産児制限運動

20090413_01_2   少子化社会の現在ではあまりみなれない状況だが、「貧乏人の子沢山」といわれた大正時代、労働者たちにとっては、子どもの多いことは苦難の種であった。このような彼らに正しい性知識をあたえようと奮闘する若き生物学者がいた。;彼はやがて衆議院議員になる。山宣の愛称で知られる山本宣治(1889-1939)である。 

    明治22年京都に生まれる。病気のために中学を退学したが、明治40年に単身でカナダに留学、明治44年帰国後、三高、東大をへて、大正9年京大、同志社大の講師となる。通常の生物学でない「人生生物学」の講義をおこない、性科学や優生学を教えた。大正11年3月10日にマーガレット・サンガー夫人の来日を機に、産児制限運動(山本自身は産児調節という語を使用している)にのりだし、労働者の中に入り、労働運動と結びついた。大正14年に雑誌「産児調節評論」(のち「性と社会」と改題)を刊行するが、同年京都学連事件で京都大学、同志社大学の教壇を追われる。昭和3年の総選挙では労働農民党から立候補。日本最初の無産党代議士となる。三・一五事件の後、労農党は治安警察法によって解散させられ、彼は治安維持法の改悪を痛烈に批判した。そのため昭和3年3月5日、東京神田の旅館で右翼の七生義団の黒田保久ニによって暗殺された。この山本の労農葬は全国で行なわれたが、大山郁夫が贈った追悼の辞、「われらの行くところは、戦場であり、墓場である」は有名である。この山宣の伝記映画がある。「武器なき斗い」(1960、大東映画)という作品だが残念ながら未見である。山本薩夫監督、西口克己原作、依田義賢・山形雄策脚本、前田実撮影、出演・下元勉、渡辺美佐子、東野英治郎、小沢昭一、宇野重吉、キネマ旬報ベストテン。山本薩夫は翌年には「松川事件」を撮っている時期であり大いに期待できる作品だろう。

江戸城無血開城の端緒を開いた男

Photo_2    山岡鉄太郎(1836-1888)は、慶応4年3月5日、徳川慶喜より恭順の意をあらわした征夷大総督府大参謀西郷隆盛に宛てた勝海舟の手紙を持参し、薩人益満休之助とともに駿府へ急行、西郷と会見する。

   朝敵となった徳川慶喜はすでに江戸城を出て上野寛永寺に移り、ひたすら恭順謝罪の姿勢をとっていた。陸軍総裁の勝海舟は、江戸決戦を唱えていきりたつ徳川の家臣をなだめつつ、官軍との連絡がつかずに苦慮していた。ここに飛び出していったのが鉄舟である。彼は、慶喜の恭順が本心から出ているものかどうか、疑っていたらしい。そこで単身、上野に慶喜を訪ね、恭順が本心であって他意はないという言質を取ったのだ。その足で海舟に会い、自分一人でも駿府に乗り込むつもりだが、何かいい策でも、と聞いてみたのだ。

   二人は初対面である。鉄舟は、尊王攘夷を唱えて暴れまわっていたころの自分の噂が海舟に知られていてはまずいと、内心では怖れていた。相手にしてくれなかったらどうするか。それも仕方なし、と思っていただろう。半分は死ぬ気ではじめたことだ。

    だが、海舟はすっかりうちとけ、鉄舟の決心を信用して、江戸攻撃は理において許されないと主張する手紙を預けたのだ。鉄舟は大任を果たした。官軍の見張っている六郷川の関所では、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る!」と宣言して突破した。薩摩人の益満がいっしょだったのも何かと都合がよかった。これは海舟の配慮である。もっとも、これですべてが解決して江戸無血開城になったわけではない。鉄舟が用意した交渉の舞台にのぼるのは西郷と海舟の、主役二人である。(引用文献:「明治維新百人」別冊太陽、平凡社、1973)

2016年3月 4日 (金)

ロープの結び目から生まれた「ノット」 

   ノットは船と飛行機の速度に使われ、時速1.852km(1海里)に当たる。昔、船のうきの綱につけた結び目で、移動した距離を計ったことによる。それが船の速力を表わす単位として使われるようになったのは16世紀頃のイギリスでのこと。

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ハンドログ(測定具)と砂時計

 

日本で最初にミシンを使ったのは篤姫だった!?

Balthasar_krems_1810_sewing_machine    本日は「ミシンの日」。1790年、イギリスのトーマス・セイントが世界で初めてミシンの特許を取得している。1810年、ドイツの靴職人バルタザール・クレムス(1760-1813)が実用化に成功。その後、1850年、アメリカのシンガーが量産をはじめた。1854年にペリー提督が来日したときの贈り物にミシンがある。13代将軍家定に贈られた献上品の中に「死ウイング・マシネ(sewing machine)」とある。おそらくミシンを初めて使った人は篤姫といわれている。「ソーイング・マシン」が日本人には「ミシン」と聞えたのであろう。大正時代から日本でもミシンが普及していった。(Thomas Saint,Balthasar Krems,sewing machine、3月4日)

2016年3月 3日 (木)

六月燈の三姉妹

   佐々部清監督の「六月燈の三姉妹」。あまり期待せずに見たが、予想以上によかった。鹿児島で和菓子店を営む一家を舞台に、経営不振の店を再建すべく三姉妹が奮起するハートフルコメディ。三姉妹は吉田羊、吹石一恵、徳永えり。「ぼくたちの家族」石井裕也監督。突然の母の病気でバラバラになりかけていた家族が絆を取り戻そうとする様子を描く。妻夫木聡、原田美枝子、池松壮亮。「そこのみにて光輝く」呉美保監督。綾野剛、池脇千鶴。「WOOD JOB 神去なあなあ日常」染谷将太、長澤まさみ。最近の日本映画も地味ながら良い作品がある。

甘酒と雛あられ

07_amazake   今日は年に一度のお楽しみ♪春を告げる雛まつり~。甘酒は白米を柔らかい粥のように混ぜ合わせ、醸して甘くした飲み物。木花開耶姫が醸した天甜酒(あめのたむざけ)は今の甘酒であろう。甘酒は古くは醸酒(こざけ)と呼ばれていたが、慶長年間の書物に甘酒という名称が見える。江戸中期天明(1781-1789)のころ江戸横山町などで「三国一」とか「白雪醸」という名をつけて甘酒が売られた。神社仏閣の境内、縁日祭礼の盛り場などで販売されるようになったのは、天保の頃で、浅草本願寺門前の甘酒店は最も名高かった。また3月3日に桃の花を浸した「桃の酒」を飲めば百病を除くといわれる。

20101210_1733919   ひな祭りになくてはならない菓子が雛あられ。大豆または黒豆を炒り、これに普通の「あられ」を混ぜ、砂糖でまぶしたものである。ほんのりとした甘味が、いかにも女の子の節句にふさわしい。

雛あられ両手にうけてこぼしけり (万太郎)

2016年3月 2日 (水)

アノミア「WOMEN'S MARATHON」

  3月13日に名古屋ウィメンズマラソンが開催される。リオ五輪はすでに伊藤舞が内定しているが、残り2枚の切符を賭けて42.195キロの激しい女の戦いが繰り広げられる。注目選手は、田中智美、城戸智恵子、野口みずき、木崎良子、早川英里など(福士加代子は欠場)。アノミア(未名辞)女子マラソン。

   女子マラソンのパイオニアはゴーマン美智子。佐々木七恵、増田明美、浅井えり子、荒木久美、小島和恵、小鴨由水、浅利純子、安部友恵、渋井陽子、有森裕子、宮原美佐子、野口みずき、坂本直子、原裕美子、甲斐智子、赤羽有紀子、重友梨佐、前田彩里、山下佐知子、真木和、松尾和美、大南敬美、土佐礼子、弘山晴美、橋本康子、中村友梨香、藤永佳子、加納由理、千葉真子、山口衛里、鈴木博美、松野明美、朝比奈美代子、川上優子、市橋有里、嶋原清子。、小崎まり、尾崎好美、大島めぐみ、中里麗美、松岡理恵、森本友、江田良子、野尻あずさ

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