青い目の人形
1927年3月18日、アメリカ人牧師のシドニー・ルイス・ギューリック(1860-1945)が日米親善のため「青い目の人形」を日本に贈った。シドニーは1860年4月10日、父ルーサーが宣教師として働いていたマーシャル諸島のエイボン島で生まれた。1887年9月、シドニーはキャラ・メイ・フィッシャーと結婚。アメリカの伝道組織・アメリカンボードに東洋で働くことを希望し、受け入れられ、結婚式の翌日から世界一周して、1888年1月1日初来日した。熊本でシドニーはキリスト教の伝道と英語を教えた。大阪、松山、京都などでキリスト教を教えて1913年帰国した。シドニーが帰国したころのアメリカでは排日の動きが強くなってきた。シドニーはウイルソン大統領に会見して日米の友好に努めるように説いた。1923年に世界の平和を作っていくためには、子どものころより国際親善の心を育てなくてはいけないと痛感し、世界児童親善会を設立した。アメリカ各地に人形委員会を設置し協力を呼びかけた。各地から贈られた人形は12,739体と言われ、出発のパーティーのあと箱に入れられ、ニューヨークとサンフランシスコに集められて日本に出発した。これらの人形はよく「青い目の人形」といわれる。野口雨情作詞の童謡「♪青い目をしたお人形はアメリカ生れのセルロイド」がすでによく知られていたからであろう。けれども全部が青い目でもなかったし、金髪でもなく、中には男の子の人形もあった。着せられた服も赤十字の看護婦、ガールスカウトの制服、キャンプ・ファイヤー・ガールズの制服、クェーカー教徒の制服とさまざまだった。そして、その返礼として、渋沢栄一を中心に「大和日出子」という答礼人形58体が日本からアメリカへ贈られた。
ギューリック
しかし1941年からの太平洋戦争によって、あれほど歓迎された人形たちも「敵国のスパイ」「仮面の親善使」などと言われて、その多くは壊されたり、焼却処分された。もし、隠していることが見つかると「アメリカのスパイ」だとか、「非国民」と言われた。シドニーは昭和20年、アイダホ州ボイシーで生涯を終えた。遺骨はボイシーと父の眠るマサチューセッツ州スプリング・フィールド、それから神戸に、3つに分けられて埋葬されている。
現在、全国各地に「青い目の人形」が323体が残っており、大切に保存されている。その1つ、長野県伊那郡根羽村立根羽小学校には「エミー」という愛称が付けられた人形が残っている。1927年5月25日、日米親善協会より寄贈されたものである。当時の状況が次のように記録されている。「エミーを迎えるとき、子どもたちは校門から玄関までならんでいた。その中を人形を胸に抱いた校長先生がゆっくりと歩いてきて、そして「人形を迎える歌」を歌って歓迎した」とある。Sidney Lewis Gulick
( 参考:北林勝士「飯田・下伊那における日米親善人形」 飯田市美術博物館研究紀要15 2005年
「ギューリック家の人々と日本 青い目の人形のきずな」 マール社 1988年 )
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