モナリザの微笑
夏目漱石の短編集「永日小品」の中に「モナリサ」という小品がある。
井深は日曜になると、襟巻に懐手で、そこいらの古道具屋をのぞきこんで歩く。ある日、女性の半身の画像を見つけ、そこに描かれた謎の微笑にひきつけられて、80銭で買って、家へもってかえる。井深は細君に灯を画のそばへかざさして、もう一遍とっくりと80銭の画を眺めた。総体に渋く黒ずんである中に、顔だけが黄ばんで見える。井深は細君に、どうだと聞いた。細君はランプをかざした片手を少し上に上げて、しばらく物も言わずに黄ばんだ女の顔を眺めていたが、やがて、気味の悪い顔です事ねぇと云った。井深はただ笑って、80銭だよと答えた限りである。
飯を食ってから、踏台をして欄間に釘を打って、買ってきた額を頭の上へ掛けた。そのとき細君は、この女は何をするかわからない人相だ。見ていると変な心持になるから、掛けるのはよすがいいと云ってしきりに止めたけれども、井深はなあに御前の神経だと云って聞かなかった。
その晩、井深は何遍となくこの画を見た。そうして、何処となく細君の評が当たっている様な気がしだした。けれども明る日になったら、そうでもない様な顔をして役所へ出勤した。4時頃家へ帰って見ると、昨夕の額は仰向けに机の上に乗せてある。ひる少し過ぎに、欄間の上から突然落ちたのだといふ。道理で硝子が滅茶滅茶に破れている。井深は額の裏を返してみた。昨夕紐を通した環が、どうした具合か抜けている。そのとき画の裏面に誰か前の持ち主が書いたらして四つ折の西洋紙が出てきた。
「モナリサの唇には女性の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダヴィンチだけである。この謎を解きえたものは一人もない」
翌日井深は役所へ行って、モナリサとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分からなかった。井深は細君の勧めに任せてこの縁起の悪い画を、5銭で屑屋に売り払った。
*
漱石がこの作品を書いた明治42年ころ、日本で「モナ・リザ」が一般庶民にまで知られていた絵画であるかどうか詳しく調べてみないとわからない。すでに福澤諭吉や岩倉具視使節団がルーブル美術館を訪問しているので「モナ・リザ」の存在は一部には知られていたと思われる。明治末期には、この短編小説が成立する程、すでに「モナ・リザ」は一般読者には知られた絵画であったと考えるほうが自然であろう。
パリ・ルーヴル美術館の「モナ・リザ」(1503-1505年頃)はケペルも実際に本物を見たことがある。モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・ディ・ザビノ・デル・ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニとされるが、マントヴァ候妃イザベラ・デステ説や、レオナルド自身とする説もある。喪服のような黒い衣裳に「謎の微笑」もちくはぐだ。レオナルドは制作中にモナ・リザを楽しませるため、音楽家と道化師を雇って気分を盛り上げたという。謎は多いほど魅力を増すものだ。「モナ・リザの微笑」は決して解かれぬ謎となって、ダヴィンチの涯て知らぬモノローグの深さを証しているのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)はフィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれる。13歳でフィレンツェに出てヴェロッキオの工房で修業し、20歳の時にはすでに「画業組合」に加入している。自然の研究にも才能を発揮したルネサンスの万能人。人体解剖やフスマート(ぼかし技法)を駆使して完璧な絵画をめざしたが、完成作は少ない。フィレンツェ、ミラノ、ローマなどを転々とし、最後は国王フランソワ1世に招かれフランスに滞在。アンボーワーズで客死。(Leonardo da Vinci)
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