無料ブログはココログ

« 祇園と中川四明 | トップページ | 日本で最初の遠足 »

2016年2月 2日 (火)

富士山は活火山

    江戸の人にとって富士山は信仰の対象であり、登拝は信仰行事であり、山上で日の出を拝することが目的であった。だが富士山への登拝は古くから行われていた。平安時代中期には山岳信仰の対象として登山の風習があった。そして末期には富士信仰と仏教とが結合して登山者の数はさらに増大した。室町時代になると信仰と無関係の登山も行われるようになり、また富士山信仰の登拝、寄進の組織である富士講が生まれた。

    富士講の開祖は戦国時代の長谷川角行(1541-1646)と伝えられる。長崎で生まれ、18歳で山行者となり、105歳の長寿をたもった。富士の人穴で没したといわれる。江戸中期に、食行身禄と村上光清(1682-1759)がでて布教をおこない、富士講は身禄派と光清派に分裂した。食行身禄は伊勢の人で本名を伊藤伊兵衛といい、13歳のとき江戸に出て油商人となったが、家産をなげうって富士講の行者となり、6世食行となって富士講の中興と称された。身禄派が優位に立って、さらに富士講を広め、江戸八百八講といわれる隆盛をしめした。そのため幕府の疑惑を招き、富士講は嘉永2年(1842)全面的に禁止された。明治になって、宍野半(1844-1884)により富士一山教会(のちに扶桑教)が、柴田咲行により実行教が組織されて復活し、富士講による登拝行事が盛んに行われた。だが関東大震災を契機に富士講は急速に衰退してきた。現在富士講教団としては、扶桑教、実行教、丸山教、富士教などがある。

ちなみに昔の小学校では、富士山は休火山と習ったが、近年、気象庁はいずれ活動を再開する可能性があるとして、いまでは富士山は活火山と定義されている。

« 祇園と中川四明 | トップページ | 日本で最初の遠足 »

「民俗」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 祇園と中川四明 | トップページ | 日本で最初の遠足 »

最近のトラックバック

2018年8月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31