元禄切腹物語
1703年のこの日、大石良雄以下赤穂浪士46人が切腹した。奥田孫太夫は義挙の後、泉岳寺へ引き揚げ、細川家へお預かりとなった。いよいよ切腹の日、細川家の堀内伝右衛門に何か遺言はないかと尋ねられると、孫太夫は真剣な顔つきで、「拙者、武芸は習い覚えましたが、この歳になるまで切腹の稽古は致したことがござらぬ、いかようにすればよろしいか御指南に預かりたい」と尋ねた。伝右衛門は困り、「拙者も見たことはござらねど、小脇差を乗せた三宝を前に置かれたとき、それを引き寄せて肩衣をはずしなされい」と答えた。横でこの問答を聞いていた富森助右衛門らは、「さてさていらざる稽古、いかようにも苦しからず、ただ首を討たれたらよいではござらぬか」と笑いあった。
毛利家にお預けとなった間新六は前原伊助につづいて九番目に切腹の座についた。当時の切腹の作法は、まず検使に向って挨拶し、小刀を乗せた三宝を戴いて肌を脱ぎ、三宝の小刀を取って腹に突き立てようとする瞬間、後から介錯人が首を落とすのである。つまり切腹とはいっても、実際には腹を切る前に介錯が行われるのが通例であった。だが間新六は検使に挨拶をすませ、三宝を戴くと同時に肌を脱がずいきなり小刀を取って腹深く突き立てた。介錯人は驚いて、すぐ首を落としたが、あまりの早業に検使もよく見届けられなかったため、改めて遺体を調べたところ、見事に腹を6、7寸ほど切っていたので、その壮烈さに立合いの一同は感嘆したという。(2月4日)
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