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2016年2月29日 (月)

アノミア

Anomiacards  アノミアというカードゲームがある。アノミアとは「失名辞」という意味。名詞と記号が書いてあり、1人ずつ順番にカードをめくっていき、記号が被った人が、そのカードに書かれている名詞の表わすものを言う。早く言った人に得点が入る。単語力というよりも、瞬発力が問われる。例えば、カードに「astonaut」と書かれていれば「毛利さん」とか「ガガーリン」という。むかしテレビのクイズ番組「クイズ100人に聞きました」に近いかんじだ。問題は「福井恐竜博物館の前で100人に聞きました。恐竜といえば?」「ティラノサウルス、ブラキオサウルス、トリケラトプス、プラテノドン、ステゴサウルス、プロントサウルス、パラサウロロフス、イグアノドン、アーケオプテリクス、アロサウルス、ヴエロキラプトル、スピノサウルス、コンプソグナトゥス、デイプロドクスなど。「カラー・アノミア」という言葉もある。色調弁別は正常であるが色名が呼称できない状態のこと。色名呼称不能。 color anomia

 

 

ウユニ塩原

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  踊る美少女・七河みこ、トヨタのCMで踊っている「ウユニ塩湖」が話題。ボリビア南部、アルチプラノにある人口希薄な塩原(えんげん)である。アンデス山脈が隆起した際に大量の海水がそのまま山の上に残された、世界でも類を見ない広大な塩原が形成された。そのまま食用に供せられるほどの純度の高い塩化ナトリウムを主とする塩類が厚く堆積している。( Bolivia,Altiplano,Salar de Uyuni )

ぱぴぷぺぽバブゥ~

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    うるう日。この日生れた人は、4年に1度しか誕生日がない。嬉しいのか、悲しいのか、どっちだ。著名人では赤川次郎(1948年)、飯島直子(1968年)、いきものがかり吉岡聖恵(1984年)。吉岡8歳のお誕生日おめでとう。

2016年2月28日 (日)

映画から広まったスウェーデン料理「ヤンソンの誘惑」

Janssonstemptation   スウェーデンの伝統的家庭料理「ヤンソンス・フレステルセ」。じゃがいも・アンチョビ・生クリームを使ったポテトグラタン。名前の由来は19世紀の菜食主義者エリク・ヤンソンとか、オペラ歌手ペル・ヤンソン(1844-1889)とか諸説あり真義はわからない。むかしは単に「アンチョビとジャガイモのキャセロール」と呼んでいたが、スウェーデン映画に「ヤンソンの誘惑」(1928)が公開されてから、この料理名で呼ばれるようになったらしい。Janssons frestelse

スカイツリー、東京ばな奈だけじゃない東京

Photo 日本の首都はどこ?ほとんどの人は東京と答えるが、実は明治維新から主要な機関が東京に集中したので、いつのまにか首都機能を持つ都市となっただけで、「東京が首都である」と明確に規定した法令はない。唯一、昭和31年に制定された「首都圏整備法」がそれらしきものである。

   地方に日本人が東京見物をするとき、一番多く訪れる場所は東京ディズニーランドだそうだ。私はまだ一度も行ったことが無い。おそらく死ぬまで行くことはないだろう。だが東京ディズーランドは東京都にはなく千葉県にある。なぜ千葉にあるのに東京としたのか?それはアメリカの本社が国際的に知名度の高い「東京」という名を選択したと考えるのが一般的であるが、異説として、Chiba Disneylandだと、Chinaと見間違われて中国という感じがするからだという説もある。

  本日早朝から東京マラソン。新宿にある東京都庁前をスタートして、市ヶ谷、竹橋、日比谷、東京タワー。品川で折り返し、増上寺、銀座四丁目、浅草、水天宮、佃大橋、そして東京ビッグサイトがゴール地点。テレビ中継を見ながら東京見物。レースはエチオピアのリレサが優勝。高宮祐樹が日本人最高の8位に入った。

パルメ暗殺事件の真相

    1986年2月28日、ストックホルムでスウェーデンのオロフ・パルメ首相(1927-1986)が狙撃され、絶命した。犯人は黒いオーバーの男という証言のみで迷宮入りかと思われた。しかし数年後、麻薬の売人だったクリステル・ペターションが逮捕されたが、裁判にかけられる直前、刑務所内で謎の死をとげた。本当にペターションは実行犯だったのか。パルメは反核・平和運動の世界的指導者だけにヨーロッパ中で反対勢力があり、背後には国際的陰謀がある。旧ソ連のKGBが絡むのか。あるいはクロアチアの独立を阻むユーゴスラビアの秘密警察の犯行との見方もある。パルメ暗殺事件は杳として謎に包まれている。 

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クリステル・ペターション

利休キリシタン説

120218_131903    千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられ自刃したのは天正19年2月28日のことである。一般には大徳寺山門に寄進した金毛閣上に自像を配したという不遜の行為、茶器の売買で不当な利得を得た「売僧(まいす)」があったこと、利休が娘を秀吉の側室にとすることを拒否したことなどが理由にあげられる。千利休の師である武野紹鴎は、心敬法師のいう「連歌は枯れかじけて寒かれ」という侘びの理論に心酔し、茶道の本質もまたそうありたいものだと考えた。天文23年正月、紹鴎の茶会の記録がある。客は松永弾正久秀と今井宗久であるが、囲炉裏のある四畳半の茶室であった。当時の堺には四畳半が流行した。四畳半は、古くは室町時代の足利義政の東求堂同仁斎にその起源をみることができるが、戦国時代に紹鴎の弟子の利休によって草庵風茶室が完成された。四畳半という大きさは、隠者の求めた山里の庵のそれであることがわかる。四畳半は「侘び」を強調した求道的雰囲気にふさわしい。ところで茶室の入口は「狭き門より入れ」という聖書の句にもとづくものだという説がある。当時、キリスト教が流行し、千利休も実は隠れキリシタンだったというのである。高山右近とも懇意な関係である。神戸市立博物館にある南蛮屏風には十字架を持ったキリシタン茶人が描かれており、それが千利休だという説もある。千利休が当時来日していた宣教師たちと交際しており、キリスト教に親しむ機会はあった。また後妻おりきの影響があったと伝えられる。千利休の侘び茶に秘められた精神とはキリスト教だったのか。そしてキリスト教信仰ゆえに秀吉に殺されたのだろうか?

昭和の巌窟王吉田石松

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    吉田石松(1879-1963)は大正2年8月、名古屋市郊外で起きた繭商強盗殺人事件の主犯とされて死刑判決を受け、仮釈放までの22年間を獄中で過ごしたが、終始、無実を訴え続けた。昭和37年10月30日、5度目の再審請求が認められて、翌年2月28日、名古屋高等裁判所(小林登一裁判官)で無罪判決が下された。事件当時34歳だった吉田はその時、83歳になっていた。判決から9ヵ月後、吉田は老衰のため永眠した。

2016年2月27日 (土)

ぺピーノはキュウリ

Img_44_01    スペインとポルトガルは同じイベリア半島にあるカトリックの国である。両国は大航海時代以降、世界の最強国となったが、17世紀以降は衰退していくという歴史的発展もよくにている。郵便ポストの色も同じ黄色。もちろん言語も共通性がみられ、スペイン語とポルトガル語はよく似ていると一般に指摘される。2016年はリオデジャネイロ五輪。ポルトガル語の陸上競技はatletismoアトレチスモ。スペイン語も同じ。一説によれば、8割から9割の単語は、スペルが全く一緒、もしくは類似性が認められる、といわれている。事実かどうか、無作為に抽出して検証してみる。いまのところ、似てはいるものの少し違う単語が多い。

   スペルが全く同じ単語

amor   アモル  愛

pepino  ペピーノ  きゅうり

bebe  べべ  赤ちゃん 

carnaval  カルナバル  カーニバル

samba  サンバ

gato   ガート  猫

rio       リオ  川

  類似性がみとめられる単語

りんご    manzana  マンサーナ(sp)

                maca   マサン(po)

雪      nieve   ニエベ(sp)

                neve    ネヴェ(po)

郵便局   corres コオーレス(sp)

       correio コヘイオ(po)

切手    sello    セージョ(sp)

               selo     セロ(po)

駅     estacion  エスタシオン(sp)

              estacao  エスタサウン(po)

鉛筆    lapiz     ラーピス(sp)

       lapis  ラピス(po) 

  全く異なる単語

クリスマス Navidad  ナビダー(sp)

        Natal   ナタウ(po)

にんじん zanahoria  サナォーリア(sp)

       cenoura セノウラ(po)

いぬ  perro   ペロ(sp)

           cachorro  カショホ(po)

トウモロコシ maiz  マイーズ(sp)

                   milho ミリョ(po)

さようなら Adios  アディオス(sp)

               Ate logo  アテ ロゴ(po)

 

伝説の海獣ラガーフロットワーム現る

    伝説の海獣ラガーフロットワーム Lagarfljot wormがアイスランドで発見されたという。巨大ヘビのような姿をしている。バルト海には謎の巨大物体がある。海底に沈むUFOだと噂されている。このような話は騙されても楽しいウソである。ネス湖の怪物ネッシーは565年に聖職者コルンバが最初に発見したとされる、もっともよく知られるなぞの動物である。このほかヒマラヤのイエティ((雪男)、アフリカのナンディ・ベア、コンゴのモケレ・ムベンベ、南アメリカのミロドン、マダガスカルのオンバス、鹿児島県池田湖のイッシーなど、世界には、いまだ発見されていない、なぞの未確認動物がいる。

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 ラガーフロットワーム

2016年2月26日 (金)

かんたんスウェーデン語単語集

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 ドイツスズラン       セイヨウトネリコ

 

    スウェーデンはほとんどが北ゲルマン系に属するスウェーデン人(85%)で、世界でもっとも均一性が高い国家の一つである。他の民族としてはフィンランド人(5%)、アッシリア人、サーミ人(ラップ族)、移民や難民が少しいる。国花は特別定まっていないが、 ドイツスズランとセイヨウトネリコが国花とされる。北海道のスズランより、葉が大きくて艶がある。花は白が基本で、淡いピンクもある。セイヨウトネリコはヨーロッパに生息する落葉高木。木材は家具、スキー、野球のバットに使われる。学名「Fraxinus」は「折れる」を意味するラテン語。スウェーデンとイギリスとは同じゲルマン系なので、類似性が認められる。

 

紅茶   te  テー

 

本    bok  ボーク

 

りんご apple  エップレ

 

ライオン lejon  レイオン

 

家族   familj  ファミリ

 

父     far    ファール

 

母    mor  モール

 

紙    papper  パッペル

 

ペンギン pingvin ピングゥイン

 

                               (Sweden,Sami)

 

 

 

 

2016年2月25日 (木)

早春の歌

     早春賦           大正2年

         吉丸一昌作詞、中田章作曲

1 春は名のみの風の寒さや。

    谷の鶯、歌は思えど

  時にあらずと 声も立てず。

    時にあらずと 声も立てず。

2 氷解け去り葦は角ぐむ。

    さては時ぞと 思うあやにく

  今日もきのうも 雪の空。

    今日もきのうも 雪の空。

3 春と聞かねば知らでありしを。

    聞けば急かるる 胸の思を

  いかにせよとの この頃か。

    いかにせよとの この頃か。

    作詞の吉丸一昌(1873-1916)は、大分県生まれ、東京音楽学校教授。作曲の中田章(1886-1931)は、東京生まれ、東京音楽学校教授をつとめる。中田喜直(1923-2000)の父。

    ウグイスは別名を春鳥、春告鳥ともいわれ、ウグイスの初鳴きは春の到来を実感する。

   ウグイス        昭和16年

        林柳波詩、井上武士作曲

1 ウメノ 小枝デ、

   ウグイスハ

  春ガ キタヨト

   ウタイマス。

  ホウ ホウ ホケキョ、

   ホウ ホケキョ。

2 雪ノ オ山ヲ

   キノウ 出テ、

  里へ 来タヨト

   ウタイマス

  ホウ ホウ ホケキョ、

   ホウ ホケキョ。

斎藤茂吉の死

   斎藤茂吉(1882-1953)は昭和20年2月、故郷の山形県南村山郡堀田村金瓶(現・上山市)に赴き、弟高橋四郎兵衛と疎開の打合わせをした。4月11日、単身にて上山町山城屋に疎開し、14日より郷里金瓶の斎藤十右衛門方に落着いた。昭和21年1月30日、金瓶を去って大石田町に移る。3月13日、肋膜炎に罹り、5月上旬まで臥床療養。

   北杜夫は「死」(岩波書店「世界」昭和39年4月)という作品でつぎのように書いている。

   戦後、父は疎開先の大石田で肋膜炎を患った。それから急速に肉体的に衰えた。昭和24年頃から歩行がかなり不自由になった。軽い左半身の麻痺も起こした。更に26年の2月、はじめて心臓の発作がやってきた。27年の4月にも、つづけて二度大きな発作があった。呼吸が切迫し、口唇、手足にもチアノーゼが現れたそうである。だが父は生きのびた。そのような肉体の衰えは、年齢からいっても既往症からいっても必然的なものであったかも知れない。だが、それに伴って精神の衰退がやってきた。もっと端的にいえば、父は頭脳をやられたのである。おそらくは脳動脈の硬化からくる老年性痴呆への進行が徐々に訪れてきていた。それは治療法とてない老年の残酷な生理の現れであった。

   昭和28年2月25日午前11時20分、新宿区大京町の自宅で心臓病のために没した。享年満70歳であった。遺体は28日、幡ヶ谷火葬場で火葬され、遺骨は2個の骨壷に分骨された。告別式は3月2日午後1時、築地本願寺で行なわれた。葬儀参列者220名、一般会葬者645名、遺骨は青山墓地と山形県の金瓶の宝泉寺に納められた。戒名、赤光院仁誉遊阿暁寂清居士

2016年2月22日 (月)

「奇妙なエビ」アノマロカリス

Anomalocaris500myearoldpredator1   古生代カンブリア紀(5億2500万~5億0500万年前)の浅海に棲息していた最大級の捕食動物で、体長は60cmくらい。頭の先からのびる大きな触手でサンヨウチュウなどのえ物を採り、強力な歯で食べた。1892年anomalo(奇妙な)+caris(エビ)という意味で「アノマロカリス」という学名を与えられた。 Anomalocaris

海底の山に歴代天皇の御名がアメリカ人学者によって付けられていた

   日本近海の海底地形がくわしくわかるようになったのは比較的最近のことである。1950年代からさかんに行われるようになった観測船による海洋観測から少しずつ明らかになってきた。北西太平洋、ハワイ列島の北西からカムチャッカ半島に向かって続く海山群に「天皇海山列」がある。1954年にアメリカの海洋学者ロバート・シンクレア・ディーツ(1914-1995)により、海山の1つ1つに日本の天皇の名前が付けられ、その総称として天皇海山群と称される。北から、明治海山、天智海山、神武海山、用明海山、推古海山、仁徳海山、神功海山、応神海山、光孝海山、欽明海山、雄略海山、桓武海山、大覚寺海山など古代天皇の名を中心に付けられている。日本人学者がつけたら不敬として問題になったであろうが、アメリカ人のすることなどでどうしようもなかったのだろうか。

「天皇海山発見・命名のいきさつと生成の謎」 杉山明 地球科学59-1、2005年

近世日本人の歩き方

Photo    現代のわれわれは通常は歩く時、右足を前に踏み出すと同時に左手を前に振り出し、左足を前に出すと一緒に右手を前に振る。このようなウォーキングの動作は実は明治以降の学校教育の中で訓練されたものであるという説が流布している。それは最近、「ナンバ歩き」という耳慣れない言葉が流行していることとも関連している。ナンバとは簡単に言うと、右手と右足、左手と左足を同時に出す歩き方である。ナンバは農耕民族の基本動作であり、たとえば利き手の右で鍬を打ち下ろすとき、人は右足を前にして踏ん張るはずである。右手と右足、左手と左足が組みになっていないと、鍬は自分の足を打ち込んでしまう。

  ナンバは歌舞伎の所作や伝統舞踏に見られるが、相撲の押し、剣道・能のすり足、盆踊りなどに現在残っている。西洋人の歩行のように腰をねじる動きは、とくに武士の刀の大小が邪魔になるし、着物の帯がゆるみやすい。ただし、ナンバ歩きが日本独自の歩き方かというとかならずしもそうとも言えず、例えば古代ギリシアの壷絵にもナンバ走法が描かれているし、オスマントルコの軍隊のイェニチェリはナンバ歩行だという説がある。また近代以前の日本人の歩き方すべてがナンバ歩きかというと、それも一概には言えない。江戸時代でも都市と農村では多少異なるかもしれないが、近世後期の都市においてはナンバはすでに消滅していたという説も有力である。幕末から明治の外国人の見聞録などの調査研究によると、日本人の歩行の特徴として、引き摺り足、歩行の音、爪先歩行、前傾姿勢、小股・内股、奇妙な歩き方といった項目が挙げられた。このうちの多くは草履や下駄などの履物による影響により、小股・内股は主に女性に見られ、着物による必然化した特徴である。外国人の見聞録からはナンバ歩行に関する記述は見いだせない。日本人によるナンバ歩行の史料が少ないのは、歩行という動作があまりに日常的であるため、意識的に記録することがなかったためであろう。近世後期の日本にナンバ歩きがあったのか、あるいは無かったのだろうか。一つ考えられるとすれば、ナンバは実際には一見してそれとは判明しないほどに、自然で目立たない動作であったのかもしれない。かつての日本人が右手と右足、左手と左足を、手を振らずに、エネルギーのロスを最小限にした自然な歩行をしていたとすれば、外国人にとっても奇妙に感じなかったであろう。明治10年の西南戦争のとき、明治政府の農民兵は薩摩兵に完敗を喫したので、洋式練兵法を採用し、それを義務教育にまで取り入れて新しい歩き方が普及されたというのが通説であるが、近世日本人が整列行進ができず、近代明治の軍隊で整列行進ができるようになったというのである。しかしながらナンバ歩行、ナンバ走法と関連づけられるこの説も戦国時代の足軽の存在や秀吉の大返しの故事を考えると機動力の点で近世がすごく劣っていたと考えるには無理な点がある。

   そもそも「ナンバ」については由来があまりはっきりしない用語である。①骨筋の違うという意から、骨筋の違いをなおす医者が大阪の難波にいたのでそれからきたという説②南蛮人すなわち外国人の動作からきたという説(「演劇百科大事典」平凡社)これらのいずれも信憑性を欠く説であろう。

   いずれにしても、近世の日本人の歩き方は、着物と履物に強く規制されていたことは間違いないことであり、その歩行をナンバと呼ぶのがはたして適切であるのか、ではウォーキングがいつごろからはじまったのか、などの疑問は今後の研究調査が待たれる興味あるテーマであろう。

アーネスト・クールターとBBS運動

Ernestcoulter   BBS運動とは BIG Brothers and Sisters Movementの略称で、1904年アメリカで起こり、わが国では1947年から始まる非行少年のよき兄や姉となってその更生に協力しようとする運動である。(このように広辞苑2版にはあるが4版からは項目が削除されている)

    当時ニューヨークの少年裁判所の若い職員アーネスト・ケント・クールター(1871-1952)が呼びかけたのが始まりである。

   わが国では京都少年審判所所長の宇田川潤四郎(1907年生まれ)と職員の徳武義(1902年生まれ)が結成を呼びかけ、1947年2月22日に「京都少年保護学生連盟」として正式に発足した。「BBS運動こそ日本の青少年問題解決の一つの鍵である」として、BBS運動は全国に広がっていった。60年代になると大きく拡大し、1966年には会員数が1万人を超えた。しかしその後は減少傾向にあり、現在は約4700人くらいである。(参考:徳武義「アメリカの少年監護所の研究」1939) keyword;Arnest Coulter

エドゥサ革命

Photo_6   アメリカで反マルコス活動を続けていたベニグノ・アキノはマニラ国際空港に降りたところを暗殺された。犯人や真相は現在も謎のままだが、この事件は国際的にマルコス大統領に対しての非難を呼ぶとともに、反マルコスの機運を爆発させることになった。そして未亡人のコラソン・アキノ(1933-2009)が反マルコスのシンボル的な存在となる。1986年2月の大統領選挙でマルコスは勝利宣言したが、不正選挙との非難を浴び、マニラでは100万人がエンドゥサ大通りを埋めた。22日にはエンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長らが決起し、軍の高官もマルコス大統領を見放し、25日にマラカニアン宮殿が包囲され米軍のヘリコプターで脱出し、その後ハワイに亡命した。ここに20年以上にわたるマルコスの独裁政治は終わった。コラソン・アキノは第11代フィリピン大統領に就任した。(Edsa Revolution,Corazon Aquino、2月22日)

2016年2月21日 (日)

ゾウリムシが人類を救う

Img_1078    ゾウリムシやミドリムシを人工的に増殖し、粉末状にしてクッキーに混ぜたものが売られているそうだ。ゾウリムシはバランスの良い栄養素を含んでいるので、ご飯にゾウリムシを食べて人間は生きていける。東京の江東区の日本科学未来館で販売されているミドリムシクッキーには、クッキー1枚に約2億匹のミドリムシが含有されており、1箱で約1gのミドリムシを摂取することができる。ミドリムシは、顕微鏡の発明者であるレーウェン・フークが17世紀に「美しい(eu)ⅸ眼(glena)」の意を込めて「ユーグレナ」と名づけた微生物。葉緑体を持っており、光合成をするが植物ではなく、細胞を変形させて運動もする単細胞生物である。水、栄養塩、太陽の光と二酸化炭素だけで、人間に必要な栄養素のほぼ全てを作り出すことができる。またDHAやEPAといった不飽和脂肪酸も豊富に含んでいる。

モンマルトルとサクレ・クール寺院

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 ハニー・リュティ  「サクレ・クール聖堂」

   モンマルトルはパリで一番高い丘にあり、現在でもパリの観光地として世界中から旅行客で賑わっている。サクレ・クール寺院左手のこじんまりしたテルトル広場に軒を並べたカフェ、レストランの前では大道芸人や似顔絵描きが屯したり、派手な色彩やきまり切った構図のどう見ても観光客用のお土産でしかない絵が販売されている。

   19世紀後半から、モンマルトル界隈はムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールなどのキャバレーが建ち並び、歓楽街となっていった。ヨハン・ヨンキント、カミーユ・ピサロ、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ドゥ・トゥールーズ・ロートレック、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワールなどの印象派画家たちがモンマルトルを制作の場とした。ルビック通り54番地はゴッホが1886年から2年間、弟のテオと共同生活を送ったアパルトマン。建物にはその証のプレートが飾られている。

   19世紀末から第一次大戦までのベル・エポックの時代には、世界中から画家・詩人・小説家など多くの芸術家たちが集まり、ここを活動の拠点とした。モンマルトルの「洗濯船」、モンパルナス近くの「蜂の巣」は、当時の画家たちのアトリエ兼アパートだった。パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、シュザンヌ・ヴァラドン、アンドレ・ドラン、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、マックス・ジャコブ、レイモン・デュシャン・ヴィヨン、アンドレ・サルモン、サン=ポール・ルー、フランシス・カルコたちがモンマルトルで育っていった。

    1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の頂にサクレ・クール寺院が建設され、シンボルのようになった。

    第一次大戦後、フランス以外の国から芸術家たちがモンマルトルやモンパルナスに移り住むようになった。モディリアニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーティン(リトアニア)たちである。彼らにはフォービズムやキュビズムの画家たちのような特定の理論や主義があったわけではない。しかもフランス国外からきたユダヤ人だった。彼らはパリをこよなく愛し、そのフランス的な感受性に傾倒して大いにそれを養分としていった。彼らは「エコール・ド・パリ」の画家と呼ばれるようになった。彼ら以外にもユトリロ、ピカソ、グリス、ドンゲン、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マリー・ローランサン、ホアン・ミロ、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリあたりまで含める場合もある。

青い目の人形

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   1927年3月18日、アメリカ人牧師のシドニー・ルイス・ギューリック(1860-1945)が日米親善のため「青い目の人形」を日本に贈った。シドニーは1860年4月10日、父ルーサーが宣教師として働いていたマーシャル諸島のエイボン島で生まれた。1887年9月、シドニーはキャラ・メイ・フィッシャーと結婚。アメリカの伝道組織・アメリカンボードに東洋で働くことを希望し、受け入れられ、結婚式の翌日から世界一周して、1888年1月1日初来日した。熊本でシドニーはキリスト教の伝道と英語を教えた。大阪、松山、京都などでキリスト教を教えて1913年帰国した。シドニーが帰国したころのアメリカでは排日の動きが強くなってきた。シドニーはウイルソン大統領に会見して日米の友好に努めるように説いた。1923年に世界の平和を作っていくためには、子どものころより国際親善の心を育てなくてはいけないと痛感し、世界児童親善会を設立した。アメリカ各地に人形委員会を設置し協力を呼びかけた。各地から贈られた人形は12,739体と言われ、出発のパーティーのあと箱に入れられ、ニューヨークとサンフランシスコに集められて日本に出発した。これらの人形はよく「青い目の人形」といわれる。野口雨情作詞の童謡「♪青い目をしたお人形はアメリカ生れのセルロイド」がすでによく知られていたからであろう。けれども全部が青い目でもなかったし、金髪でもなく、中には男の子の人形もあった。着せられた服も赤十字の看護婦、ガールスカウトの制服、キャンプ・ファイヤー・ガールズの制服、クェーカー教徒の制服とさまざまだった。そして、その返礼として、渋沢栄一を中心に「大和日出子」という答礼人形58体が日本からアメリカへ贈られた。

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  ギューリック

    しかし1941年からの太平洋戦争によって、あれほど歓迎された人形たちも「敵国のスパイ」「仮面の親善使」などと言われて、その多くは壊されたり、焼却処分された。もし、隠していることが見つかると「アメリカのスパイ」だとか、「非国民」と言われた。シドニーは昭和20年、アイダホ州ボイシーで生涯を終えた。遺骨はボイシーと父の眠るマサチューセッツ州スプリング・フィールド、それから神戸に、3つに分けられて埋葬されている。

Photo_2   現在、全国各地に「青い目の人形」が323体が残っており、大切に保存されている。その1つ、長野県伊那郡根羽村立根羽小学校には「エミー」という愛称が付けられた人形が残っている。1927年5月25日、日米親善協会より寄贈されたものである。当時の状況が次のように記録されている。「エミーを迎えるとき、子どもたちは校門から玄関までならんでいた。その中を人形を胸に抱いた校長先生がゆっくりと歩いてきて、そして「人形を迎える歌」を歌って歓迎した」とある。Sidney Lewis Gulick

( 参考:北林勝士「飯田・下伊那における日米親善人形」 飯田市美術博物館研究紀要15  2005年
「ギューリック家の人々と日本 青い目の人形のきずな」 マール社 1988年 )

机「9」文字事件の謎

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  1988年2月21日、東京都世田谷区鎌田の区立砧南中学校で午前1時ごろ、覆面をした5、6人の若い男が学校に乱入した。宿直の警備員をトイレに監禁し、校舎内の机447脚とイス9脚を校庭に運び、「9」の机文字を描き出したまま放置して逃走した。犯人は同中の卒業生を中心とした大学生たちで、9人が机文字をつくり、3時間で完成した。彼らは何んのために奇行に及んだのであろうか。「9」の数字の意味は、若者の苦しみの「九(苦)」とか「9は一桁の数字では最大。宇宙人に対するアピールでもある。宇宙人から選ばれれば限りないパワーを持つことができる。宇宙人は絶対に存在する」などと語っている。本当のところは、愉快犯で、ただ世間を騒がせたかっただけなのであろうが、彼らもいまでは40歳を過ぎたオジサンになっている頃だろう。

2016年2月18日 (木)

長谷川時雨と三上於菟吉

Photo   長谷川時雨(1879-1941)。本名、長谷川ヤス。明治12年10月1日、東京日本橋区通油町(現・大伝馬町)一番地に長谷川深造の長女として生まれる。最初の結婚に失敗して実家に戻った。このころ気の向くままに書いた戯曲「海潮音」が読売新聞に入選した。明治43年8月、「操」が好評を得、翌年「桜吹雪」と改題、尾上菊五郎によって歌舞伎で上演された。これによって劇作家としての地位を確立することができた。大正になると、時雨は菊五郎・猿之助らとともに「新舞踊劇運動」を起こし、歌舞伎に新風を吹き込んだ。同時に、演劇雑誌「シバキ」を発行したり、菊五郎らと「狂言座」を組織したりした。また大正12年、岡田八千代とともに女性文芸誌「女人芸術」を刊行したりしたが、これは経済的理由で2号で廃刊となった。この間、時雨は戯曲のほかに「名婦伝」「美人伝」「旧聞日本橋」などの伝記小説や随筆も書き、脚光を浴びるようになった。

   三上於菟吉(1891-1944)は、埼玉県北葛飾郡桜井村字木崎の生まれ。早稲田大学に進み、宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、直木三十五、国枝史郎、近松秋江などを知り、三富朽葉、北原白秋と親しくなる。処女作「春光のもとに」が朝鮮独立運動を題材にしていたため発禁となる。不遇をかこつ於菟吉を深く理解したのが、長谷川時雨だった。

   昭和のはじめに、時雨と於菟吉との結婚は、劇界や文壇をおどろかせた。時雨は昭和3年、「女人芸術」を再度発行して主宰した。(昭和3年7月から昭和7年6月まで全5巻、48冊)神近市子、山川菊枝、平林たい子、中条百合子(宮本百合子)などの論客に、林芙美子、矢田津世子、上田文子(円地文子)、ささきふさ、窪川いね子(佐多稲子)、中本たか子、岡本かの子、森三千代などの女流作家を育てた。昭和3年10月から連載された林芙美子の「放浪記」で一躍注目を浴び、多くの女流文学者が輩出し、当時の女流文芸雑誌の頂点に立った。於菟吉も「敵討日月双紙」「鴛鴦呪文」「淀君」「雪之丞変化」などで大衆作家としての人気を博した。於菟吉の稼ぎは赤字経営の「女人芸術」に惜しげもなく注ぎ込まれた。だが於菟吉の実生活は乱脈を極めた。昭和10年、長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」が大当たりし、全盛期を迎えるが、翌年に自動車事故で右腕を骨折、さらに血栓症で病に伏せて文壇から遠ざかった。時雨は昭和16年8月22日、慶応病院で死去、63歳だった。於菟吉は昭和19年2月18日、埼玉県幸松村(:現・春日部市八丁目)で53年の生涯を閉じた。

2016年2月17日 (水)

生きていたシーラカンス

   シーラカンスは今から3億8000万年も前の古生代デボン紀に栄え、恐竜とともに絶滅した古代魚と思われていた。ところが1938年、アフリカのコモロ諸島の近くで、生きた個体が発見された。研究の結果、3億年前からからだの基本的なつくりかたがほとんど変化していない原始的な魚で、まさに生きた化石といえることがわかった。その後1991年には、26匹の胎児をもっためすがモザンピーク沖で捕えられ、1997~8年には、インドネシアのスラウェシ島沖でも似た魚が発見された。これはコモロ諸島のものとは別種で、インドネシア・シーラカンスとも呼ばれている。 coelacanth

2016年2月16日 (火)

ヒイラギ

020086   ヒイラギと聞けば、クリスマスの飾りなどに用いられる棘のある樹木をおもいうかべる。しかしスズキ目ヒイラギ科に分類される小型魚もある。体型が木の葉の形で周囲に棘があることからこの名が付けられたそうだ。

東京文学散歩・吉原

   台東区竜泉・吉原界隈。明治26年、樋口一葉は本郷菊坂町より下谷竜泉308番地に、母と妹と三人でここに住んだ。不朽の名作「たけくらべ」(明治28年)の舞台となった竜泉町である。下谷から吉原の裏門に通じる吉原茶屋通りと呼ばれる道路に面して、最初の店を開いたのは8月6日、ささやかな店ではあったが、荒物雑貨・文房具・子供相手のおもちゃや菓子類をならべた商いの傍ら創作にはげむ。この竜泉寺で書いたのが「琴の音」で、「文学界」に掲載されるとともに、しだいに文学界同人たちとの交際も密接になっていく。「たけくらべ」の舞台となった吉原界隈に住む人々は、多かれ少なかれ吉原に寄生して生活しているものばかりである。物語の主人公、大黒屋(吉原の妓楼)の美登里は、いずれは遊女になる運命の活発な14歳の少女。一葉は貧しい庶民が吉原によりすがって生きる有り様に目を据えて、それを独特の風俗として細やかに描いている。

黄色は幸福と身を守るための色

   女性の声はなぜ黄色い声援というのか?中国に由来している。むかしから中国で黄という色は「ただごとではない」という意味があり、つまり女性の黄色い声は「ただごとではない声」という意味なのである。西洋でも昔から黄色い花は多くの場合、不吉な花言葉になっている。バラは「嫉妬」(イギリス)、「誠意のないこと」(フランス)、黄色いカーネーションは「軽蔑」の意味である。おそらくキリスト教の普及につれ、黄が下等な色とされるにいたった。しかし近年では黄色は幸せを招く色と言われている。ドーンが歌いヒットした「幸せの黄色いリボン」(1973年)、桜田淳子の「黄色いリボン」(1974年)、そして山田洋次の映画「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)。近年ウィリアム・ハート主演でリメイク「イエロー・ハンカチーフ」など枚挙に遑ない。

   また信号機の黄色は「注意」を意味し、警告色である。児童の黄色い傘やレインコート、黄と黒の配色で危険なことを示し、工事現場や踏切保安装置などに使われている。

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800pxyellowsubmarineairport黄粉は大豆をいって挽いて粉にしたもの。▽イエロー・サブマリンは1966年ビートルズの13枚目のオリジナル・シングル曲。▽「きいろいゾウ」2006年の西加奈子の小説。▽「黄色いシャツ」は韓国ハン・ミョンスクの1961年のヒット曲。▽イエロー・キャブ ニューヨークなどで走っているボディがイエローのタクシー。▽「アイナメ」雄の婚姻色はすごく鮮やかな黄色。

Mikan1黄鳥歌。高句麗瑠璃明王の古詩(前17年)▽聴導犬は黄色またはオレンジのケープ(ベスト)を着用している。

▽世界の郵便ポストは赤・青・黄に限られるが、その中で黄色の国がいちばん多い。

柏レイソルのチームカラーはイエロー。

▽アーチェリーの標的で一番得点の高いど真ん中のゾーンは黄色。

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Retrogiallo   「ジャッロ」はイタリア語で黄色という意味。1970年代にイタリアで連続殺人を扱ったスリラー映画がブームになった。もともとは黄表紙のペーパーバックに装丁された小説が幻想文学、犯罪小説、ホラー小説、エロティック文学のジャンルに関連する内容が多いことに由来している。

武庫川に生息する魚たち

   武庫川は、全長65㎞、支流などをあわせた総延長250㎞、流域面積486㎢で、篠山市(旧多紀郡丹南町)の山あいに源を発し、三田市を貫き神戸市北東部、宝塚市を経て伊丹市、尼崎市、西宮市の市境を流下し大阪湾に注いでいる。この武庫川の水は各市町の農業用水、上水、工業用水として利用され、流域の各地ではフナやアユ、アマゴが放流され釣りが盛んに行われ、水辺は動植物の野外観察や生物とのふれあいの場となっている。

  武庫川で見られる魚は、中流でアユ、ハゲギギ、ヨシノボリ。中・下流でオイカワ、カマツカカワヒガイ、コウライモロコ、コイ、ナマズ、ドンコ。下流でウグイ、モツゴ、ニゴイ、ゲンゴロウブナ、ギンブナ。河口域ではメナダ、スズキ、ヒイラギ、マハゼなどが見られる。今では珍しくなってしまった魚たちはカワバタモロコ、メダカなど、ほとんど確認できなくなってしまった。

2016年2月15日 (月)

戦後神戸の流行「おじゃみ」

   昭和30年代、神戸の子供たちは小学校の授業の休み時間に、男の子は小石を布で包んだ「お手玉」を足でけって落とさず何回連続できるかをきそっていた。サッカーのリフティングと同じで、それを「じゃみげり」とよんでいた。いろいろ調べると、中国の「ティチェンツー(踢・毛+建・子)」がルーツで、穴の空いた硬貨に鳥の羽根をさし、硬貨の部分を布か革で包んだ羽根(チェンツー)をけって遊ぶものである。神戸には南京街があって中国の習俗が広まりやすいからだろう。

招き猫伝説の由来

Img_1506662_63358785_0   近江彦根藩主、井伊直孝(1590-1659)は江戸で鷹狩りのさい、ある貧しい寺に立ち寄った。そこで手招きする猫のおかげで落雷から命を救われた。直孝は、この寺を菩提寺とし、のち招猫堂がつくられた。招き猫といって、座って前足を挙げて、人を招くようなポーズをとった縁起物の置物がある。今戸神社が招猫の発祥地の一つだが、ほかにも自性院、伏見稲荷などにも由来が伝わる。幸運と商売繁盛のお守りとして、商店では正月に買ったものを店先にかざる。この置物が一般的になるのは明治になってからである。彦根市のキャラクター「ひこにゃん」も白猫を元にイメージされたものである。一説にこの風習は中国唐代の雑記集「酉陽雑俎」が、俗に猫が耳のうしろまで顔をあらうと、客がくるとしていることに由来するという。

コロンブスの卵

Photo   コロンブスという人物については、スペイン女王イサベラの援助を得て、1492年新大陸を発見したことは誰でも知っているが、彼の生涯や思想についてはあまり明らかではない。だが「コロンブスの卵」という逸話はとても有名である。帰還したコロンブスの功績を祝う晩餐会での話である。偶然がともなう大発見は、単に海を西へ進んだだけでだれでもできるという噂をしたり、妬むものもいた。席上、コロンブスは一同をみわたし、テーブルの上に、ゆで卵を立てることができるか、という問題を出した。みんなが試みるものの、卵はころころところがるだけで、誰も成功するものはなかった。そこでコロンブスは、卵のはしをテーブルにこつんと叩きつぶして手を放した。すると、卵はそのまま倒れずに立った。「なんだ、そうすれば誰でもできる。なんでもないじゃないか」と言いあって笑った。彼は「そうです。卵を立てるなどなんでもないことです。でも、あなた方は誰ひとりとして気づかずいたのです。最初にやるのが貴く、大切なのです」と言った。最初に行うことの大切さをわかりやすくみんなに説いたのである。この有名な逸話は残念ながら本当にあった話ではない。イタリアの歴史家ジロラモ・べンゾーニが「新世界の歴史」(1565年)でコロンブスの偉業を脚色して建築家ブレネレスキの逸話を元に創作して書いたといわれる。今日では、何でもないようなことでも、最初に行ったり考えたりするのは困難であるということの慣用句として使われている。(世界史こぼれ話)

ララヒッパリ

C461e9d53d4e488d8c81fbc6758fa610   高い山に暮らすメキシコ先住民のタラフマラ族は、昔からララムリ(走る人)とよばれ、狩りをするときも武器ではなく、足を使った。そんなタラフマラ族に400年以上も続く伝統競技が「ララヒッパリ(rarajipari)」である。簡単にいえばボールを足で蹴るマラソンのようなもの。木でできたボールを2つ用意し、革のサンダルをはいて参加する。2つのチームに分かれる。それぞれのチームが、木のボールをけり、山の中の長い距離を走る。山道でボールが茂みに入ったり、川に落ちたりしても、手は使ってはいけない。足だけを使ってボールをつなぎ、ゴールをめざす。

土佐十一烈士墓

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    慶応4年2月15日、堺港に上陸してきた仏軍艦デュプレックス号の兵に対し、土佐藩士がフランス人11名を殺傷した。いわゆる堺事件である。フランス公使ロッシュは、土佐藩士の斬刑や謝罪を求め、結局、2月23日、箕浦猪之吉ら20人の切腹が妙国寺本堂庭前で行われた。猪之吉は最初に切腹の座に着くと、「フランス人ども聴け、おれは汝らのためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹をよく見ておけ」と言った。しかし、次々と切腹し、11人が切腹した時点で、フランス人達は切腹の悲惨さに驚き、中止を命じ、橋詰愛平ら残り9人は罪人として土佐に返された。現在、堺市宿屋町東の妙国寺宝珠院境内に「土佐十一烈士墓」がある。箕浦猪之吉ほか10名の烈士も名のみ記す。西村左兵次、池上弥三吉、大石甚吉、杉本広五郎、勝賀瀬三六、山本哲助、森本茂吉、北代健助、稲田貫之丞、柳瀬常七。

シンガポール陥落

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   太平洋戦争における南方作戦は南方の石油獲得が目的であり、マレー作戦の成否は、以後の作戦に対して決定的意義を持っており、最も重要視された作戦であった。山下奉文中将指揮する三個師団基幹の第25軍は、昭和16年12月8日を開戦日を決定した。そして昭和17年2月15日にはシンガポールを陥落した。

   シンガポールは陥しても
   まだ進撃はこれからだ
   遺骨を抱いて俺はゆく
   守ってくれよ戦友よ
      (「戦友の遺骨を抱いて」)

    山下奉文中将と英軍パーシバル中将の降伏交渉は15日夜に行われた。日露戦争の乃木稀典将軍とステッセル将軍の会見場面を思い浮かべながら会見に臨んだ山下は、降伏条件の一つ一つに注文をつける英国式のやり方と、通訳の拙さに堪りかねて、「イエスかノーか」の回答を求めた。これが勝利に思い上がった傲慢な態度と宣伝されてしまい、山下が願った美しい会見の場は実現できなかった。

「糸巻きの聖母」真贋の謎

T02200282_0800102513338936969   NHK総合「糸巻きの聖母 城から消えたダ・ヴィンチ」を放送。現在、江戸東京博物館でレオナルド・ダ・ヴィンチの「糸巻きの聖母」(1501年頃)が一般公開されている。この絵は、スコットランドの貴族バクルー公爵家所蔵の作品で、イギリス・イタリアなどヨーロッパ以外で公開されるのは初めてのことである。この作品は多くのレオナルドの画集には載っていない。理由はおそらく、聖母子と岩がレオナルドの手になるものであるが、背景など周辺部分は別の画家の手になるものとみられているからであろう。また後世の画家たちが描いた模写が40点近く現存しており、この作品そのものが真作なのかもグレーゾーンとみる学者もいる。最近、赤外線調査により下絵が発見されたことで真作ということになったらしい。真作か贋作の判断はむずかしいく素人意見であるが、全体的なことでいえば、レオナルドの特徴は大胆な構図でありながら、自然なバランスの良さを感じさせる点であるが、この作品にはバランスが悪く不自然さを感じさせる(とくに聖母の右手のアンバランスな角度)。第2はレオナルド描くマリアには優美で知的な気品がみられるが、この作品には表情に生命感がみられず、顔は平面的であり、わざとレオナルド風に似せて描いたようにみえる。この絵は1771年、第3代モンタギュー公爵がパリの競売で買ったとされるがそれ以前の来歴が怪しい。2003年には盗難事件にあい4年間行方不明だったいわくつきの絵画である。はたしてこの絵画はレオナルドの真作だろうか?

2016年2月14日 (日)

カティサーク

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    カティサークといってもウィスキーではなく、紅茶の輸送に活躍したイギリスのクリッパー帆船。1849年に航海条例(1651年にクロムウェルによって制定された輸入品を積むイギリス船を制限する法律)が廃止されたため、アジアとイギリスを結ぶ貿易が広く開放された。なかでもカティサークと呼ばれる快速船クリッパーによって全盛期を迎えた。

Photo_6     船首にあるフィギュアヘッドにはスコットランドの民話に登場する妖精ナニーの像が飾られている。船名はナニーの「短いシュミーズ(スコットランドのゲール語でcutty sark)」に由来する。(figure head)

アルバート・フィニ―とショーン・コネリー

   「ローマの休日」で有名な女優オードリー・ヘップバーンが亡くなって23年が経つ。ゲーリー・クーパー、ハンフリー・ボガート、グレゴリー・ペック、ウィリアム・ホールデン、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンス、バート・ランカスターなど彼女と共演した男優たちもほとんどが他界している。そして2008年にメル・フェーラー(戦争と平和)、2012年にベン・ギャザラ(華麗なる相続人)、2013年にピーター・オトゥール(おしゃれ泥棒)、2014年にジェームズ・ガーナー(噂の二人)が相次いで死去した。存命な男優はアルバート・フィニ―(いつも2人で)とショーン・コネリー(ロビンとマリアン)の2人だけとなった。

火山地形による分類

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  火山は、そのおのおのが独立して存在し、しかもそれぞれ特徴のある地形を呈する。その地形をもとに火山は、いくつかに分類される。実際の火山では、活動は複雑であるのでその基本型だけのものは少なく、組合せた複合型になっている。オーストリアの火山学者カール・シュナイダーは、1911年火山地形を山容から7つに分類することを提唱した。

 

コニーデ(成層火山、円錐火山)   富士山、鳥海山

 

トロイデ(鐘状火山)   焼岳

 

マール           一ノ目潟

 

アスピーテ(楯状火山) マウナロア(ハワイ)

 

カルデラ                      阿蘇山

 

ホマーテ(臼状火山)  ダイヤモンドヘッド(ハワイ)

 

   このほか、ベロニーテ(塔状火山、昭和新山)など。日本では学校教育などにより広く一般に普及しているが、ともすると外見上の形態のみに終始して、火山の本質的なものに深く触れない傾向があった。これらの形態はマールを除き、世界的には地形学者でも知らないそうだ。コニーデ等の火山の名称は現在では使われていない。

モナリザの微笑

    夏目漱石の短編集「永日小品」の中に「モナリサ」という小品がある。

 

    井深は日曜になると、襟巻に懐手で、そこいらの古道具屋をのぞきこんで歩く。ある日、女性の半身の画像を見つけ、そこに描かれた謎の微笑にひきつけられて、80銭で買って、家へもってかえる。井深は細君に灯を画のそばへかざさして、もう一遍とっくりと80銭の画を眺めた。総体に渋く黒ずんである中に、顔だけが黄ばんで見える。井深は細君に、どうだと聞いた。細君はランプをかざした片手を少し上に上げて、しばらく物も言わずに黄ばんだ女の顔を眺めていたが、やがて、気味の悪い顔です事ねぇと云った。井深はただ笑って、80銭だよと答えた限りである。

 

    飯を食ってから、踏台をして欄間に釘を打って、買ってきた額を頭の上へ掛けた。そのとき細君は、この女は何をするかわからない人相だ。見ていると変な心持になるから、掛けるのはよすがいいと云ってしきりに止めたけれども、井深はなあに御前の神経だと云って聞かなかった。

 

   その晩、井深は何遍となくこの画を見た。そうして、何処となく細君の評が当たっている様な気がしだした。けれども明る日になったら、そうでもない様な顔をして役所へ出勤した。4時頃家へ帰って見ると、昨夕の額は仰向けに机の上に乗せてある。ひる少し過ぎに、欄間の上から突然落ちたのだといふ。道理で硝子が滅茶滅茶に破れている。井深は額の裏を返してみた。昨夕紐を通した環が、どうした具合か抜けている。そのとき画の裏面に誰か前の持ち主が書いたらして四つ折の西洋紙が出てきた。

 

「モナリサの唇には女性の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダヴィンチだけである。この謎を解きえたものは一人もない」

 

    翌日井深は役所へ行って、モナリサとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分からなかった。井深は細君の勧めに任せてこの縁起の悪い画を、5銭で屑屋に売り払った。

 

            *

 

 

 

     漱石がこの作品を書いた明治42年ころ、日本で「モナ・リザ」が一般庶民にまで知られていた絵画であるかどうか詳しく調べてみないとわからない。すでに福澤諭吉や岩倉具視使節団がルーブル美術館を訪問しているので「モナ・リザ」の存在は一部には知られていたと思われる。明治末期には、この短編小説が成立する程、すでに「モナ・リザ」は一般読者には知られた絵画であったと考えるほうが自然であろう。

 

   パリ・ルーヴル美術館の「モナ・リザ」(1503-1505年頃)はケペルも実際に本物を見たことがある。モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・ディ・ザビノ・デル・ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニとされるが、マントヴァ候妃イザベラ・デステ説や、レオナルド自身とする説もある。喪服のような黒い衣裳に「謎の微笑」もちくはぐだ。レオナルドは制作中にモナ・リザを楽しませるため、音楽家と道化師を雇って気分を盛り上げたという。謎は多いほど魅力を増すものだ。「モナ・リザの微笑」は決して解かれぬ謎となって、ダヴィンチの涯て知らぬモノローグの深さを証しているのである。

 

   レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)はフィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれる。13歳でフィレンツェに出てヴェロッキオの工房で修業し、20歳の時にはすでに「画業組合」に加入している。自然の研究にも才能を発揮したルネサンスの万能人。人体解剖やフスマート(ぼかし技法)を駆使して完璧な絵画をめざしたが、完成作は少ない。フィレンツェ、ミラノ、ローマなどを転々とし、最後は国王フランソワ1世に招かれフランスに滞在。アンボーワーズで客死。(Leonardo da Vinci)

2016年2月13日 (土)

昆孫

   ひまごの子を「玄孫(げんそん)」、一般に「やしゃご」という。その次は、来孫(らいそん)、昆孫(こんそん)、仍孫(じょうそん)、雲孫(うんそん)と呼ばれる。米国人女性エリザベス・ボ-ルデンさんには昆孫が75人いたという。

従甥(じゅうせい)

   宮部みゆき「火車」に妻の従兄弟の子を何と呼ぶのか?という件がある。親族の続き柄を表で調べると、自分から見て従兄弟の子は男であれば「従甥(じゅうせい)」、女であれば「従姪(じゅうてつ)」と呼ぶが、一般に「いとこ違い」という。しかし妻の従兄弟の子の呼び名は分からなかった。

愉快犯

 スーパーでスナック菓子に爪楊枝を入れる様子を動画に投稿する「ネット愉快犯」が逮捕された。「愉快犯」とは世間を騒がせて、自分だけが楽しむ悪質きわまりない犯罪のことで、なんら実益が伴わない犯行である。 

    昭和52年1月4日早朝、東京港区高輪で青酸ナトリウムを混入したコーラによる毒殺事件が連続して起こった。最初の犠牲者は高校1年生の檜垣明くん。電話ボックス内にあったコカ・コーラを口に含んだとたん、「腐っている」と吐き出した。その直後、意識不明となり病院に運ばれたが午前7時30分頃死亡。

    もう一人の被害者は菅原博(46歳)。グレーの作業服を着たまま路上で死亡していた。解剖の結果青酸反応が検出され、中毒死と判明。続いて2月13日、大阪藤井寺で類似の青酸コーラ事件が発生してが、こちらは狂言だった。小山信幸(39歳)は狂言でコーラを飲んだりして騒ぎが大きくなりすぎたため、引っ込みがつかなくなり自殺したものと思われる。

    さらに、2月14日のバレンタイン・デーでは、東京駅八重洲地下街で青酸ナトリウムが混入されたチョコレート40箱が発見された。中箱の裏にカタカナで「オコレルミニクイニホンシンニテンチュウオクタス」(おごれる醜い日本人に天誅を下す)と書かれていた。

    東京港区の事件は1992年に時効が成立した。犯人は今もどこかで息をひそめ、誰かの生命をねらっているのだろうか。「愉快犯」という不気味な言葉はこの青酸コーラ無差別殺人事件から生まれたといわれている。

2016年2月12日 (金)

サムソンとデリラ

   イスラエルが40年にわたってぺリシテ人に苦しめられていた時、ダン族のマノアにサムソンが生まれた。マノアの妻は不妊の女で、子を産んだことがなかったが、サムソンの誕生は「不思議」という名の神の使いによって約束されたものであった。ただし生まれてくる子供は、生まれながらの木から産するもの、酒、汚れた食物を口にすることを禁じられ、頭にかみそりを当てることも禁じられていた。この種の人をナジル人と言った。

    サムソンは神に守られ成長し、神の霊がしばしば彼に臨む時、彼は子やぎを裂くように素手で獅子を引き裂き、ぺリシテ人の町アシケロンで30人を殺し、彼を縛った二本の綱は火に焼けた亜麻のようになって落ち、手にしたろばの骸骨一つ一千人を打ち殺した。また、その他にも彼の超人、怪力ぶりはぺリシテ人への復讐にきつね三百匹捕え尾と尾を結んでその間に松明を結びつけ、松明に火をつけてぺリシテ人の畑に放してこれを焼き、或いは閉じ込められたガザの町の城門の門柱と扉を貫の木もろとも引き抜き、肩にかついでへブロンの向かいの山頂に運び上げたことも示されている。

    サムソンは神意を受けてぺリシテ人の女セマダルと結婚し、婚礼の宴に集ったぺリシテ人30人に「食べる者から食べ物が出た。強い者から甘い物が出た」との謎を解くことを求めた。彼が殺した獅子の肉に蜂が群なし、蜜がたまっていたことを意味し、この謎解きに晴着と亜麻の服各30着を賭けた。謎を解くことのできなかった30人はサムソンの妻を脅迫し、7日目にこの妻を通して答を引き出すことに成功した。「蜂蜜より甘いものは何か。獅子より強いものは何か」するとサムソンは言った。「わたしの雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかっただろうに」

   そのとき主の霊が激しく彼に降り、サムソンはアシケロンの町でぺリシテ人30人を殺害し、はぎ取った晴着を、謎を解いた者に与えた。秘密をもらした妻をその父は花婿付添人であった男に妻として与え、これを怒ったサムソンは狐を使ってぺリシテ人の畑を焼いたのである。ぺリシテ人はユダの人々を脅迫し、サムソンの引き渡しを要求した。この時サムソンを縛った綱は火に焼けた亜麻のように解け、サムソンはろばの顎骨で一千のぺリシテ人を撃ち倒したのである。

   ガザの城門を引き抜いた後、サムソンはソレクの谷に住むデリラという女を愛した。ぺリシテ人はサムソンの怪力の秘密を聞き出そうとデリラを買収した。サムソンはデリラに偽の情報を与えて三度彼女の願いをかわしたが、ついにデリラの哀願にまけ、その秘密を漏らした。かみそりを当てたことのない頭髪が力の源泉であった。デリラはひざの上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪をそり落させ、ぺリシテ人に引き渡した。サムソンは両眼をえぐられガザに引かれ、獄で青銅の足枷を繋がれて臼を曳かされる身となった。

    ぺリシテ人の君侯たちが集まって、彼らの神ダゴンに犠牲を献じる日に、サムソンは群集の前に引き出された。男女が集い、屋上には三千の見物人がいた。サムソンは二柱の支柱の間に身を寄せ、身を屈めて柱を圧した。家は崩れ、そこに居た者たちは皆圧し潰された。サムソンの頭髪は再び伸びていたのである。サムソンも死んだが、この時殺した者の数は彼が生前殺したものより多かった。やがて彼の亡骸は親族に引き取られ、故郷の父マノアの墓に葬られた。彼の活躍したのは20年間であった。

    士師記の英雄たちの行動は、多くのクリスチャンを当惑させる。このような人々の信仰をどうして推奨することなどできるだろうか。どのようにして神はこれらの人々を用いることができたのであろうか。このような問いに対しては、完全に満足のいく答えをだすことはできない。神は、その生活が非難の余地なしとはとてもいえないような人々や、全く間違った動機から行動している人々をさえお用いになったのであり、現在も用いておられるということである。聖書の中で、彼らの不道徳は大目に見られてもいないし、もっともらしいこじつけの解釈もされていない。ただ彼らの信仰と勇気だけが推奨されているのである。神は、一見、希望のない、堕落した時代においても、ご自身の究極の目的が妨げられるのをお許しにはならないのである。

   セシル・B・デミル監督の映画「サムソンとデリラ」(1949年)は迫力の演出と絢爛豪華なセットで聖書世界の映像化に成功した。豪勇サムソンにはビクター・マチュア、デリラにはへディ・ラマール、セマダルにはアンジェラ・ランズベリーが熱演した。なおセマダルの名前は手元にある聖書には見当たらず、映画で使用された名前である(参考:「士師記」、「聖書の世界」自由国民社)世界史こぼれ話

バベルの塔は実在した!?  

Photo   ノアの子孫は急速にふえ、真の宗教をはなれて、偶像崇拝に傾いていった。かれらはその頃どこでも同じ発音、同じことばを使っていたが、故郷を出て東へうつり、シナルの平野に住むようになった。「さあ、れんがを造って、よく焼こう」かれらは互いに言いあって、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」と企てた。それを見た神は、人間の傲慢さに憤った。しかしノアとのあいだに2度と人類を滅亡させないと約束を交わしていたため、別の罰を与えることにする。神は、その傲慢さを打ち砕こうとするため、かれらの言語をみだし、たがいに意志が通じなくされたので、かれらはそこから全地方へ、散りみだれたかれらは都をきずくことを断念し、その建てかけた都をバベル、すなわちヘブライ語で混乱と呼んだ。「バベルの塔」は、そのことからして一般に実現不可能な企てなどについて用いられる。また「バベルの塔」は傲慢さのシンボルともいえる。またバベルの塔はメソポタミアにあった「ジッグラト」といわれる何層もの階段が積み重ねられた聖塔がモデルであるとか、「バベル」という町の名前には、新バビロニアへの反感と揶揄が込められているという説がある。(世界史こぼれ話)

2016年2月11日 (木)

カニの自切

   「トカゲのしっぽ切り」という言葉があるように、自然界では、動物が自分の体の一部を自分から切ることによって、外敵から逃避することがある。これを「自切(じせつ)」と呼んでいる。自切する器官はあらかじめ切り離しやすい構造になっていたり、喪失した器官を再生させる等の機能を持つ種が多い。カニは、敵に襲われたときに、脚を切ってそのすきに逃げる。自切後には新しい脚が再生するようになっている。

暖流と寒流

Img_0027   海洋は地球表面の71%、ほぼ四分の三を占める。世界には○○海流と名前のつく流れがある。海流は大気循環とコリオカの力で発生し、暖流と寒流がある。暖流は北太平洋海流、黒潮、赤道海流、南インド洋海流、北大西洋海流、メキシコ海流。寒流はカリフォルニア海流、親潮、南太平洋海流、東グリーンランド海流、ラブラドル海流、カナリア海流。

    海流は、その付近の土地の気候に、深い影響を与える。たとえば、イギリスのマンチェスターは、北緯約53度にあり、ロシアのオムスクの緯度とほとんど同じである。しかし、マンチェスターの年平均気温は、オムスクより9度以上高く、気温の上がり下がりも、オムスクほどはげしくない。これは、マンチェスターの沖を、暖流である北大西洋海流が流れているためである。

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2016年2月10日 (水)

歯ブラシの歴史

10064435052   毎日つかっているものでも誰の発明・考案か知らないものがある。歯ブラシの考案者イギリス人のウイリアム・アディス(1734-1808)について詳しいことは何も知らない。

    歯ブラシの歴史について簡単に記す。バビロニア人は紀元前3500年頃には口腔衛生用にチューイング・スティックを使っていたが、これは簡単に言うと端がほつれた小枝である。インドでは、軟らかくなるまで噛んだニームノキの小枝を広げて、それで歯を磨いた。1223年には中国の僧侶が、牛の骨の柄に馬の尾の毛をつけたブラシで歯をきれいにしたという記録がある。剛毛が植えられた初の歯ブラシは1500年頃の中国で考え出されたが、このときに使われた剛毛は、寒い気候の土地にいるために長くて濃い毛を生やした、ブタの首や肩からのものだった。1690年に初めて英語に「歯ブラシ」という単語が出てくるが、イギリスの古物研究家アンソニー・ウッド(1632-95年)が購入したと記録されている。1770年、ウィリアム・アディスは騒動を引き起こしたとして、投獄された。彼は投獄中で、歯をすすと塩をつけてぼろでこすってきれいにする方法には改良の余地があると考えた。そこで小動物の骨を手に入れると、それに小さな穴を開けて、看守から入手した剛毛を結んで房状にし、それを骨の穴に通して糊でくっつけたのである。別の試作品では、骨に開けた穴に馬の毛を通して、細い針金で固定した。知られている中で最初に大量生産を始めたのはこのアディスで、彼は牛の骨を刻んで柄にした歯ブラシの販売という家業を始めて、またたく間に大金持ちとなったのである。1869年には機械による初のアディスの歯ブラシの柄ができた。第一次世界大戦中、アディスは軍隊に歯ブラシを供給して、歯磨きという国民的な習慣をつくり出した。1926年までには、彼の会社は年間で180万本の歯ブラシを製造していた。1927年には、柄がプラスチックの歯ブラシが初お目見えするとともに、剛毛の植毛が機械で行われるようになった。

日本の火山帯

Kazantai  2014年に御嶽山噴火以降、口永良部島、箱根山などで噴火が相次いでいる。今年になって2月8日には桜島で今年2回目の爆発があった。それでも「これくらいの噴火は日常」と地元の人々はいたって冷静である。日本の国土のほとんどは太平洋をめぐる山地帯の一部で、日本には山地が多い。その面積は、国土の約80%をしめ、大きく太平洋側と日本海側の2つの斜面に分けている。日本の火山帯は北から千島火山帯、那須火山帯、鳥海火山帯、富士山火山帯、乗鞍火山帯、白山火山帯、霧島火山帯の7つに区分され、日本列島を北東部では南北に、南東部では東西に連なっており、活火山の火山活動が活発化している。

2016年2月 8日 (月)

自転車の元祖ドライジーネ

6906062bc9ff3572f4fb20c1b310fa64   現在の自転車に近い乗り物が初めてつくられるのはフランスで、1790年にミード・ド・シュラヴラク伯爵によると言われている(が、伯爵を架空の人物だとする資料もある)。それは「セレリフェール」と名づけられ、やがて「ヴェロシフェール」の名に変わった。足で地面を蹴って進む子供のスクーターに似た木製の乗り物で、ペダルやステアリングもなく、非常に熟練した乗り手でなければ、今でいう曲乗りのように前輪を持ち上げて行きたい方向に向きを変えることはできなかった。1817年にドイツのマンハイムで、カール・フォン・ドライス(1785-1851)によって前輪にステアリングギアを備える工夫をしたドライジーネの走行テストが行われた。自転車の発明家は諸説紛々あるものの確実なのはドライジーネである(画像)。木製でペダルはついておらず、足で地面を蹴って進む乗り物である。つまり車輪を駆動しないので厳密にいうと自転車ではないが、後の自転車の礎となった。ハンドルがついているので方向転換はできた。単純な足けり二輪車ながら人間より速いことを立証したことで、自転車への発明考案が相次ぐようになった。1839年、イギリスのカークパトリック・マクミランはペダル付の自転車を考案した。まもなく14マイルの距離を1時間もかけずに移動できるようになった。彼は一度も自分の発明で特許を得たり、金銭を得たりしようとしなかった。( keyword;Draisine,Karl von Drais,Mannheim,bicycle )

ファランクスとサリッサ

   古代マケドニア帝国のフィリッポス2世は、縦深が8列程度であった従来の密集陣形(ファランクス)を改変し、6mの長槍(xlZxサリッサ)を持った歩兵による16列×16列の集団を1シンクタグマとして構成、このシンクタグマが横に並ぶことで方陣を形成した。この密集陣形によって、フィリッポス2世と息子のアレクサンドロス大王は、ギリシアの諸都市やエジプト、ペルシア帝国、北西インドを次々と征服した。しかし、これらの改良は柔軟性や機動力の更なる低下へと繋がり、後にこれが命取りとなって、ローマ軍の側面攻撃によって敗れることとなる。のちに、サリッサは主要な戦闘兵器としての役目を多様な剣に譲ることになる。

2016年2月 7日 (日)

叶順子「御身」(1962年)

   貧しいながらも東京で働く姉と弟。ある日、弟が人から預かった50万円を何者かに盗まれた。姉(叶順子)は弟のために、50万円で会社社長の囲い者となる。姉には恋人がいたが泣く泣く別れた。この話だと金色夜叉のように展開するかと思うだろうが然にあらず。社長は宇津井健なので善人である。仁木田鶴子や角梨枝子など妾がいる。叶も初めは警戒していたもの次第に宇津井の誠実な人柄を知り、2人は結ばれる。原作は婦人公論に連載された源氏鶏太の小説。「細雪」で島耕二監督に見出された叶順子は一躍大映の看板女優となった。若手のポープであったが、活動期間わずか6年で惜しまれながら引退した。エロが売り物の大映にあって唯一の清純派女優だった。この「御身」はどことなく「昼下がりの情事」(1957)を思わせる。大金持ちのプレイボーイと音楽生の小娘との恋のかけひき。ゲーリー・クーパーとオードリー・ヘプバーンを宇津井健&叶順子に代えたというわけ。小娘が大人の男性を知って洗練された女性に変身していくストーリーも同じである。ほんとに叶順子はいい女優さんだったのに残念。

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  写真中央が叶順子


2016年2月 6日 (土)

世界のおもな川

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 アマゾン川

   NHKクイズホールドオン!(241回)「世界一長い川は?」という問題。正解はナイル川。現在、世界の河川の長さでは第1位ナイル川(6695㎞)、第2位アマゾン川(6516㎞)、第3位長江(6380㎞)、第4位ミシシッピ川(5969㎞)、第5位オビ川(5568㎞)、第6位エニセイ川(5550(㎞)となっている。ただし、2010年3月10日付けの朝日新聞「しつもん!ドラえもん」欄では、ナイル川の長さは6695㎞とあるが、新しい調査でアマゾン川を第1位とする説もあるという。季節によって異なるし、水源や河口を特定することが困難だから計測によって誤差もでる。アマゾン川の上流を調査すると、新たな源流が発見された。これが承認されると、およそ6800~6992kmくらいになり、アマゾンが世界一長い川となる。

   ウィキペディアで調べると、アマゾン、ナイル、長江の河川の比較表があり、アマゾンが一番長いとされる。

アマゾン川  7,025㎞
ナイル川    6,671㎞
長江       6,300㎞

    古い百科事典、「国民百科事典1961年」(平凡社)で調べると、なんとミシシッピ川が第1位だった。第1位ミシシッピ川(6650㎞)、第2位アマゾン川(6200㎞)、第3位ナイル川(5600㎞)。ミシシッピの水源はミズーリ川の水源とつながっている。正確には「ミシシッピ川-ミズーリ川」という。

2016年2月 5日 (金)

鉛筆のはじまり

Oldestpencil   鉛筆は14世紀ごろのイタリアに鉛と錫を混和した鉛筆があったという。記録のあるところでは1565年にスイスの博物学者コンラート・ゲスナー(1516-1565)が自家製鉛筆を使用していた。1564年イングランドのカンブリア州ボローデールで、良質の黒鉛が大量に発見され、棒状の木に挟んだ鉛筆が作られていた。1610年までには、ロンドンの市場で鉛筆が普通に売られていた。1662年には、黒鉛粉、硫黄、アンチモンを使った初の大量生産による鉛筆が、ドイツのニュルンベルクでつくられている。17世紀の鉛筆は2枚の細長い木の板の間に、芯となる細長い黒鉛の棒をはさんで固定していた。1761年にはドイツでカスパー・ファーバーが現在のような鉛筆の製造をはじめた。1795年、フランス人のニコラ・ジャック・コンテが黒鉛と粘土で作った芯を高温で焼くという方法を発明した。ちなみに日本で初めて鉛筆を使ったのは徳川家康。ヨーロッパ製のもので久能山東照宮に保管されている。( keyword;Konrad Gesner,Nicholas Jacques Conte )

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 シャルダン「鉛筆を削る若いデッサン画家」 1737年

カナダの自然と歴史

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   褐色の岩肌を誇るカナディアン・ロッキーにあるキャッスル・マウンテンとバウ川。名称は1858年にジェームズ・ヘクターによって名づけられたが、アメリカのアイゼンハワー大統領がカナダを訪れたのを記念して、「アイゼンハワー山」と改称された。しかし地元の強い要請もあり、1983年に旧称のキャッスル・マウンテンに戻った。

   世界で一番面積が大きい国は、もちろんロシア。アジアとヨーロッパにまたがり、国土の面積は約1708万平方km。では、2番目に広い国はどこか。中国?それともアメリカ?いずれも面積は900万平方km以上あるが、カナダの国土面積は997万平方kmで、ロシアに次いで世界第2位である。

    ヨーロッパ人が北アメリカに来る以前から、カナダを縦横に走りまわっていたのが、インディアンである。かれらの祖先は、ベーリング海峡を通って、アジアからアメリカ大陸へ入って来たものと考えられている。ヨーロッパ人がカナダにやって来た近世の初めに、かれらの文化はまだ石器時代の段階にあって、狩猟生活を営んでいた。一部の部族は原始的な農業を営み、トオモロコシやカボチャなどをつくっていたが、イヌのほか家畜がなく、したがって牧畜も知らなかった。五大湖地方から、セントローレンス川流域には、イロコイ語族に属するインディアンの諸部族が居住し、かれらは同盟を結んで、近隣の諸部族を脅かしていた。セント・ローレンス河谷に、ヨーロッパ人から鉄の斧やナイフ、鉄砲や毛織物を手に入れ、狩猟の産物である毛皮と交換して、これらの便利な文明の利器をますます多く得たいと望むようになった。

   コロンブスのアメリカ発見の5年後、1497年から翌年にかけて、イタリア人ジョバンニ・カボート(イギリス名ジョン・カボット)が、イギリス王ヘンリー7世の許可を得て西航し、セント・ローレンス湾口にあるケープ・ブレトン島や、グリーンランドおよびニュー・ファンドランドを発見した。1524年、イタリア生まれの航海士ヴェラッツアーノは、フランス王の依頼を受けてニューファンドランドからフロリダ沿岸を探検した。フランス人ジャック・カルティエはフランス王フランソア1世の命を受けて、アジアに至る北西航路探検のため大西洋を西航し、1534年から翌年にかけて、同川をさかのぼって現在のモントリオールの地点まで到着した。

   フランスの探検隊カルティエ等がインディアンに「ここはどこか」と訊ねた。イロコイ族は「カナタ(村の意味)」と答えた。探検隊はこれを地名と誤認し、誤って「カナダ」となったという。(イギリスの地名研究家テイラーの説)

   カルティエはインディアンから「カナダ王国」の話を聞いたが、そこで見たものはインディアンの貧しい部落だけだった。しかしながらこの探検によって、フランスのカナダに対する領土権主張の根拠がすえられた。その後インディアンとの毛皮貿易の利益が知られるとフランス人の本格的な植民が始まった。フランス王アンリ4世から毛皮貿易の独占権を与えられたド・モンを説得してセント・ローレンス流域に向かったシャンプランは、1608年、ケベックの地に最初の恒久的な根拠地を築いた。1663年にルイ14世は新フランス植民地の知事や監督官や司教を任命し、その後有力な軍隊が派遣されて、フランス人に敵対するイロコイ族の討伐も行なわれた。軍隊の将校や兵士に、セント・ローレンス川沿岸の土地が与えられ、フランス本国に類似した封建的領主制が行なわれた。カトリック教会にも広大な土地が下付され、教会は入植者の生活のあらゆる部面において、指導的役割を果たした。

    17世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争に至るまで、ヨーロッパで戦争が起こると、イギリスとフランスは必ず敵対する陣営に属して戦った。フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)で、イギリス人の植民地は、フランス人の植民地に対してはるかに確固たる農業植民地を形成していたため、イギリスの決定的な勝利に終わった。カナダはイギリス領となった。ケベックその他のフランス人植民地は、イギリス軍の占領後ケベック州となった。人口の大部分がフランス系植民者からなり、宗教・言語・法律・習慣の異なるヨーロッパ人を統治するという新しい課題に直面したイギリス政府は、1774年にケベック法を定めて、ローマ・カトリック教の信仰の自由を保証し、フランス的な民法とイギリス刑法を適用することにして、フランス系カナダ人の自由と権利の保護に努めた。このような文化の異なる民族に対する寛容な政策により、イギリス領ケベック州とイギリス本国の間の統合が強化された。

   ケベック法によって、ケベック州の領域がオハイオ川北岸まで拡大されたことは、大西洋岸のイギリス領13州植民地に刺激を与えた。これらの植民地では独立の気運が高まり、独立軍は1775年ケベック州に侵入してモントリオールを攻略したが、ケベック要塞を占領することはできなかった。1783年のパリ条約により、五大湖の線がアメリカとイギリス領ケベック州の境界線となった。

   アメリカ独立戦争の際、これに反対したロイヤリスト(忠誠派)が大挙カナダに移住したことは、その後のカナダの人口構成に大きな変化を与えた。約4万人のロイヤリストがノバスコチアおよびニュー・ブランズウィックに移住し、後の上カナダ、現在のオンタリオ州に移住した者は約1万人にのぼるといわれている。このためカナダにはイギリス系の人口が急増し、かれらはケベック法で認められていなかった代議制や、その他のイギリス的な自由な諸制度の実施を求めるようになった。イギリス本国政府はこれらの要求にこたえて、1791年植民地政府組織法を定めた。この法律によりケベック州は、イギリス系人口からなる下カナダの二州に分離され、それぞれに立法院と衆議院が設けられた。これより以前、ノバスコチアには1758年、1763年イギリス領となったプリンス・エドワード島には1773年、ノバスコチアから分離したニュー・ブラウンズウィックには1784年に、それぞれ代議制議会が認められていた。なおケベック州では以前からフランス的な封建的土地保有制が行なわれていたが、1791年の法律により、新しく下付される土地についてイギリス的な自由な土地保有制が適用されるようになった。

   1867年7月1日、イギリス領北アメリカ法が成立し、ノバスコシア、ニューブランズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなる連邦としてカナダ自治領が成立する。初代首相はジョン・アレクサンドル・マクドナルド(1815-1891)。1949年にニュー・ファンドランド島が連邦に加盟し、その結果現在のカナダの領域が最終的に確定する。英領アメリカ法が修正され、完全な主権を獲得する。1970年代以降はカナディアン・アイデンティティーの確立を模索するという動きが外交面でみられ、従来の対米依存の路線から自主路線への転換が図られるとともに、先進国の一員として国際的発言力を強めつつある。1982年カナダ新憲法が公布され、イギリスからの完全独立が達成される。(引用文献:「これが新しい世界だ9 カナダ」国際情報社)

 

 

2016年2月 4日 (木)

元禄切腹物語

Akou1thumbnail2    1703年のこの日、大石良雄以下赤穂浪士46人が切腹した。奥田孫太夫は義挙の後、泉岳寺へ引き揚げ、細川家へお預かりとなった。いよいよ切腹の日、細川家の堀内伝右衛門に何か遺言はないかと尋ねられると、孫太夫は真剣な顔つきで、「拙者、武芸は習い覚えましたが、この歳になるまで切腹の稽古は致したことがござらぬ、いかようにすればよろしいか御指南に預かりたい」と尋ねた。伝右衛門は困り、「拙者も見たことはござらねど、小脇差を乗せた三宝を前に置かれたとき、それを引き寄せて肩衣をはずしなされい」と答えた。横でこの問答を聞いていた富森助右衛門らは、「さてさていらざる稽古、いかようにも苦しからず、ただ首を討たれたらよいではござらぬか」と笑いあった。

    毛利家にお預けとなった間新六は前原伊助につづいて九番目に切腹の座についた。当時の切腹の作法は、まず検使に向って挨拶し、小刀を乗せた三宝を戴いて肌を脱ぎ、三宝の小刀を取って腹に突き立てようとする瞬間、後から介錯人が首を落とすのである。つまり切腹とはいっても、実際には腹を切る前に介錯が行われるのが通例であった。だが間新六は検使に挨拶をすませ、三宝を戴くと同時に肌を脱がずいきなり小刀を取って腹深く突き立てた。介錯人は驚いて、すぐ首を落としたが、あまりの早業に検使もよく見届けられなかったため、改めて遺体を調べたところ、見事に腹を6、7寸ほど切っていたので、その壮烈さに立合いの一同は感嘆したという。(2月4日)

黒部の父、冠松次郎

Bo6    「黒部の父」と称され日本アルプスの未踏の山域に多くの足跡を残し、山岳紀行文でも知られた登山家・冠松次郎(1883-1970)は、明治16年の今日、2月4日に東京で生まれた。

   日本アルプスが開拓されていない明治末期、家業の質屋を経営するかたわら、登山に熱中する。誰もが高い山への登頂を目指していた頃、冠松次郎は流行に背くかのように、黙々と渓谷美を訪ね歩いた。明治44年、松次郎は白馬岳に登り、祖母谷を流れに沿って下り、初めて黒部峡谷に入った。さらにその最奥部にある幻の滝と呼ばれた剣沢大滝遡行に挑戦した。十字峡の命名者でもある。それらの体験記を発表し、著書は昭和3年「黒部渓谷」を刊行したほか「渓」「立山群峰」「黒部」「剣岳」「渓からの山旅」「峰・渓々」「廊下と窓」「雲表を行く」「山渓記」など20冊を超える。

2016年2月 3日 (水)

クレオパトラと蛇信仰

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    日本の縄文中期土器には生々しく活気に満ちた蛇の造型が多くある。このような造型は祖先神としての蛇信仰がみられるという。蛇を崇めることは古代諸民族で多くみられるが、一説によればエジプトにおこって世界各地に広がったといわれる。中国にも「花底蛇(かていのじゃ)」という諺がある。「美しいもののかげに怖いものがある。」というような意味。

   クレオパトラが毒蛇に乳房を噛ませて死んだという伝説があるが本当だろうか。オクタビアヌスとの戦いに破れたクレオパトラは、断食による死を選ぼうとしたが、クレオパトラおよび子どもたちをローマに送る予定であると知らされ、クレオパトラは女王にふさわしい死の道を決意したのである。クレオパトラがどのような死に方わしたのかは本当は今でも謎である。刺したあとがあったため、ある人は髪の間にかくしていた毒針で身を刺したのだといい、またある人はいちじくの籠の中に隠されたアスプ(またはアスピス)に腕をかませたのだろうという。アスプという蛇も2000年以上のことなのではっきりしないがおそらくコブラだっただろう。後世の画家たちはさらに腕ではなくエロチックに乳房に毒蛇という趣向を考えた。エジプト人の信仰では、アスプは太陽神アモン・ラーに捧げた聖獣である。聖獣に乳房を噛ませて生命を絶ったということは、神々の仲間に入ることが許されることと信じていた。エジプト人の眼にはクレオパトラほど立派な死に方をしたものはなかった。蛇が信仰の対象となったのは、外形が男根に似ていて生命の源とみている。つまり女性のシンボルである乳房と男根(蛇)とのエロチックな要素によってクレオパトラの永遠性を象徴したかったのであろうか。

日本で最初の遠足

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 日本遠足の発祥地・寺山観音寺

  日本で最初の学校給食は明治22年、山形県鶴岡町(現鶴岡市)の市立忠愛小学校といわれている。では日本で最初の遠足はどこか?早稲田大学の浜野兼一の説によると、寺山観音寺(栃木県矢板市)は日本で初めて遠足が行われた場所だそうだ。(「明治期における学校行事の研究」早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊9-2、2001)「明治8年旧暦1月1日、永清館(現在の矢板市立泉小学校の前身)の下級八級生約40名が近くの寺山観音寺に初詣した」のが、遠足の始まりとされる。もっとも江戸時代から寺子屋では花見や遊山程度のものはあったと思し、これって遠足?、初詣じゃないのかな、と突っ込みたくなる。ともかく学校行事としての遠足が、普及するのは明治20年代からで、運動会や修学旅行と明確に分化するのは大正時代に入ってからだそうだ。「遠足」という言葉そのものは江戸時代からあり、「遠い道のりを歩く」という意味。柳樽に「遠足の達者二人で六郎兵へ」とある。大町桂月「親子遠足の感」(明治42年)では親子3人が富士山へ遠足したことが記されている。若杉鳥子の一文に「女工さん達が監督に引率されて、遠足にでも出かけた帰りらしい」(「詩精神」独り旅、昭和9年)とあることから、「遠足」の意は必ずしも学校の校外学習としての意味だけではなかったことがわかる。

2016年2月 2日 (火)

富士山は活火山

    江戸の人にとって富士山は信仰の対象であり、登拝は信仰行事であり、山上で日の出を拝することが目的であった。だが富士山への登拝は古くから行われていた。平安時代中期には山岳信仰の対象として登山の風習があった。そして末期には富士信仰と仏教とが結合して登山者の数はさらに増大した。室町時代になると信仰と無関係の登山も行われるようになり、また富士山信仰の登拝、寄進の組織である富士講が生まれた。

    富士講の開祖は戦国時代の長谷川角行(1541-1646)と伝えられる。長崎で生まれ、18歳で山行者となり、105歳の長寿をたもった。富士の人穴で没したといわれる。江戸中期に、食行身禄と村上光清(1682-1759)がでて布教をおこない、富士講は身禄派と光清派に分裂した。食行身禄は伊勢の人で本名を伊藤伊兵衛といい、13歳のとき江戸に出て油商人となったが、家産をなげうって富士講の行者となり、6世食行となって富士講の中興と称された。身禄派が優位に立って、さらに富士講を広め、江戸八百八講といわれる隆盛をしめした。そのため幕府の疑惑を招き、富士講は嘉永2年(1842)全面的に禁止された。明治になって、宍野半(1844-1884)により富士一山教会(のちに扶桑教)が、柴田咲行により実行教が組織されて復活し、富士講による登拝行事が盛んに行われた。だが関東大震災を契機に富士講は急速に衰退してきた。現在富士講教団としては、扶桑教、実行教、丸山教、富士教などがある。

ちなみに昔の小学校では、富士山は休火山と習ったが、近年、気象庁はいずれ活動を再開する可能性があるとして、いまでは富士山は活火山と定義されている。

祇園と中川四明

春風や祇園清水孔雀茶屋

京の町は鉾立つる日や雲の峰

祇園会の児並び行く朱傘かな

   中川四明(1849-1917)は、俳人、編集者、教育者、児童文学者、美学者、新聞小説家など多方面に活躍した。嘉永2年2月2日、京都で生まれる。幼名は勇蔵のち登代蔵(とよぞう)、字は重麗、別号は紫明・霞城・霞城山人。下田耕作の次男。中川重興の養子。学校教員を経て、日本新聞、京都中外電報、大阪朝日新聞勤務。明治29年9月21日、知恩院楼門前の茶店で京都満月会を興す。明治37年に俳誌「懸葵」を刊行。「四明句集」(明治43年)、編著に「俳諧美学」「触背美学」等がある。大正6年5月16日没。享年68歳。

2016年2月 1日 (月)

タスカロラ海溝

   千島海溝の中央部、北緯44度、東経150度にある海溝。1874年米国船タスカロラ号が水深8514mを観測したが、1953年にはソビエト連邦の海洋観測船ビーチャジ号がこのやや南西で1万377mの深所を発見した。タスカロラ海溝は「タスカロラ海床」として、宮澤賢治の童話「風の又三郎」にも記されている。

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リマン海流の語源

Kaisan_kairyu   日本列島には黒潮および対馬海流の2つの暖流と、親潮およびリマン海流の2つの寒流が流れている。橘南谿の「西遊記」(1800年)には「伊豆の沖、百三、四十里南へ出て無人島へ渡る海に黒潮というところありて、数十里が間大河の如く唯一筋逆巻きて流るるところあるとなり」とある。黒潮という名が古くから使用されていることがわかるが、リマン海流という用語はだれの創唱であろうか。調べたところによると、ドイツの地理学者レオポルド・フォン・シュレンク(1826-1894)がアムール川付近を調査した結果、1873年に対馬海流とリマン海流を発見命名したとある。「リマン」とはロシア語で大河の河口(三角江)を意味するが、この大河とはアムール川のことである。 Leopold von Schrenck

びっくりぽん映画・ドラマ

  映画「愛の渦」おそまきながら見ました。都会の高級マンションに集まる若者たちの乱交パーティー。朝ドラ「まれ」の親友の役の女優、門脇麦が内気な女子大生を演じる。ニートの池松壮亮と激しいセックスで2人は結ばれたかに見えたが、女は男の交際をすげなく断り早朝の街角に消えて行く。窪塚洋介の「そんなかっこいいこと、ここにはないんで」というセリフがすべてを語っている。ヌーベルバーグのような余韻に現代の不毛の愛を感じた。

   大河ドラマ「真田丸」もう本能寺の変になっちゃった。来週は家康の伊賀越え。朝ドラ「あさが来た」ディーン・フジオカ五代様が大人気。友厚は大阪経済の復興のために尽くしたが、明治18年に早逝している。モデルの広岡浅子が銀行事業をするのは明治21年から。2人の関係を証明する記録はなく、ドラマのような深い付き合いはあくまでフィクション。実は一度も会っていないかもしれない。

ふるさと山形

   戦国時代の末に、山形城を根拠とする最上義光によって統一され、現在の山形県域がほぼ確定した。「忠臣蔵」の吉良義央の長男綱憲が15万石に減封されて廃藩置県まで続いた。中興の祖、上杉鷹山は、もともとは日向(宮崎県)の人だが、上杉家に養子に入り、米沢織など殖産興業によって藩財政を立て直した。幕末の攘夷論者、清河八郎の日記・詩文などを展示した清河八郎記念館は東田川郡立川町にある。山形訛りの喜劇俳優、伴淳三郎は米沢の南画家の息子。山形といえばサクランボの収穫量全国一である。佐藤栄助(1867-1950)は「佐藤錦」という高級品種をつくり出した。

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