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2016年1月15日 (金)

東西洋考

  中国において「東洋」という言葉が使われだしたのは、14世紀頃からであるが、盛んに使われたのは17世紀の初め、すなわち万暦の頃からである。これは「西洋」に対する言葉であった。当時、中国と交易関係の深かった南海諸国を東西の二つに分け、そこに到達する二つの針路として東西針路、西洋針路の名が用いられた。4世紀の僧法顕はインドを訪問し、帰路を東南アジア経由の海路をとっている。607年には常駿がスマトラ地方を探検している。

 明の万暦45年(1617年)に出版された張燮(ちょうしょう)の「東西洋考」によると、東洋針路は南部中国→澎湖島→台湾→スル→ミンダナオ→モルッカ→ボルネオであって、この針路に当たる国々を東洋列国といった。また西洋針路は南部中国→インドシナ→シャム湾横断→マライ→シンガポール→スマトラであってその針路に当たる国々を西洋列国といった。

   近年、オックスフォード大学ボドリアン図書館で中国の古地図が発見された。17世紀イギリスの法律学者ジョン・セルデン(1584-1654)から寄贈された後、100年ものあいだ忘れ去られていたものだった。それは既存の地図とはまつたく異なっていた。アジア全体を網羅し、中心が中国本土ではなく南シナ海にある。背景にはジェームズ1世時代の英蘭の対立がある。オランダのグロティウスは「いかなる国家も海洋においては排他的な管轄権を行使することはできず、またすべての国家の船舶は貿易を目的として選んだ海域を自由に航行することができる」という自由貿易論を説いた。これに対して、セルデンは「国家の周囲の海はその国家の領土の一部(領海)である」という閉鎖海論(1635年)を説いた。「自由貿易論」も「閉鎖海論」も英蘭の利益のために書かれたものである。つまりオランダ東インド会社とチャールズ1世である。またセルデンの地図には漢字で日本の地名も記されている。筏仔沙机(長崎)、殺子馬(薩摩)、魚鱗島(平戸)など。 John Selden

東西交通史論叢 桑原隲蔵 弘文堂 1933
東西交渉史の研究 上下 藤田豊八 岡書院 1932
東西交渉史論 上下 史学会編 富山房 1939
東西交渉史 支那及び支那への道 H・ユール著 帝国書院 1944
東西交渉史 大学受験文庫 風巻磊蔵 千代田書房 1952
東西交通史 アジア史講座6 羽田明編 岩崎書店 1957
東西交渉旅行記全集 桃源社 1965
東西香薬史 山田憲太郎 福村出版 1966
東西交渉史の研究 藤田豊八・池内宏編 国書刊行会 1974
東西交渉史 ユーラシア叢書 H・ユール著 鈴木俊訳 原書房 1975
東西交渉史文献目録1 中央アジア 梅村坦編 シルクロード 1979
東西交渉史話 江上波夫著作集4 平凡社 1985
東西交流と皇帝の文化 中国・美の名宝3 NHK出版 1991
セルデンの中国地図 ティモシー・ブルック 太田出版 2015

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