最後の晩餐
伝承によれば、最後の晩餐は町の南西部にある友人の家でなされたという。食事は多分過越のごちそうであったろう。紀元29年に、もし過越の祭りが金曜日の夜にはじまったとすれば、ガリラヤの巡礼者たちは旅行の禁じられている安息日の前に帰らなければならなかった。それで、ごちそうを一日早く祝うことが許されていたのである。
とにかくイエスはこの食事に特別な意味を与えた。パンをさき、ぶどう酒を与えて、彼は彼の来たるべき死を新しい約束、すなわち預言者エレミアによってバビロン捕囚の際に告知された「契約」に結びつけた。
讃美を歌った後、イエスと弟子たちは、ケデロンの谷を横切ってオリーブ山に来た。山の斜面にゲッセマネと呼ばれる小さな園があった。ゲッセマネから、イエスは数分間で山の頂にいたり、ユダヤの荒野の深い峡谷を抜けて東にでも南にでも逃げることができた。逃げれば追跡者は彼を見つけ出すことはほとんど不可能であった。
しかし、彼は逃げる道を選ぼうとはせず、ペテロとヤコブとヨハネとが深い眠りにおちいる間も、祈りつづけたのであった。
ゲッセマネにおいて、イエスは自分で予期していたとおり逮捕された。弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、祭司たちと組んでイエスを裏切った。ユダは宮の警備兵の小さな分遣隊を連れてやってきた。多分その中には幾人かのローマ兵士たちもいたであろう。
弟子たちは目をさまして、逃げ去った。そして警備兵は抵抗しないイエスを捕えて、大祭司カヤバの邸宅へ連れていった。そこにはユダヤ人の議会、サンへドリンの議員たちが集まっていた。サンヘドリンは死刑を命じる権限をもたなかったので、議員たちはただ、イエスの罪が死刑に値すると述べただけであった。そして彼らはイエスをローマの総督ポンテオ・ピラトのところへ送った。
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