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2016年1月29日 (金)

韓信の背水の陣

Ihttp253a252f252fpds_exblog_jp252fp    項羽と劉邦の楚漢抗争は3年が続き、一進一退の攻防が繰り返される中、キャスチングボードを握っていたのが漢の韓信だった。韓信は「背水の陣」「疑兵の計」「半渡の計」など天才的な軍事能力を如何なく発揮し、漢を勝利に導いた。

   前205年、韓信は、井陘口に20万もの大軍を集結し要塞を築いて待ち受ける陳余が率いる趙軍に対してわずか数万の兵でいどむことになった。

   夜、韓信は二千の軽騎兵に漢の赤い幟を持たせ、砦が空になったら、そこに立てることを命じて移動させ、自らは川(綿蔓水)を背にして布陣した。背水の陣である。

    翌朝、趙軍に偽装攻撃をかけて敗走すると、趙軍は砦を空にして追撃してきた。しかし、川を背にして逃げ場のない一万の漢軍は奮戦して押し返し、趙軍が砦に戻ろうとすると、そこにはすでに漢の赤い幟がはためいていた。二千の軽騎兵が、趙軍の出はらった砦に入ったのである。帰るところを失って狼狽する趙軍は追撃されて総崩れとなり、たちまち勝負は決した。

   このセオリーを無視した作戦の意味を問われた韓信は「己を死地に陥れて然る後に生ず」(「孫子」九地篇)をあげた。いま、日常語にまで使われる「背水の陣」の由来がこれである。

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