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2016年1月 4日 (月)

本当は「賤ヶ岳九本槍」だった!?

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   天正十年、織田信長は本能寺の炎とともに散ったのち、その三男の信孝を後継者におした柴田勝家と豊臣秀吉との決戦が琵琶湖の北端にある賤ヶ岳でおこなわれた。その賤ヶ岳で奮戦した秀吉の近習などの若侍七人を七本槍という。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則の7人である。ところが古い史実では、7人に加えて、石河兵助、桜井佐吉も秀吉から感状を受けている。しかもこの9人は、いずれも「一番槍」と称されており、当時はいわゆる「七本槍」という言い方はなかったのである。同等の働きぶりを示した2人がなぜ除かれたのか。寛永2年に小瀬甫庵が著した「太閤記」では語呂のよさも手伝ってか石河と桜井が除かれている。石河は賤ヶ岳で戦死し、桜井も、その後、早くに病死している。また石河・桜井の2人は、秀吉の直臣馬廻り衆ではない。子飼いの重臣の必要性を痛感していた秀吉は、合戦後、直臣7人の功績を大いに宣伝した。そのため、いつしか彼らのみを指して「七本槍」ともてはやされるようになったと思われる。

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