横瀬夜雨と閨秀文学
近代詩は、島崎藤村によって感傷と主情とを以てはじめられ、与謝野鉄幹に於いて艶麗に、土井晩翠によって雄壮に、そして薄田泣菫には主知的な古典詩風となり、伊良子清白には端正な高踏詩風を産み、河井酔名はおだやかに、横瀬夜雨(画像)は野趣のある詩風を建立し、以て現実的ロマンチズムの流れをなした。2月14日夜雨の忌日(昭和9年)。
横瀬夜雨(1875-1934)は、明治11年1月1日、茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)に生まれる。3歳の時、佝僂病に冒され、歩行の自由を奪われて生涯をこの病に悩まされる。「文庫」に作品を発表し、詩人としての評価を得る。河井酔茗が主筆をしていた「女子文壇」を手伝い、作品を発表するかたわら、詩や日記文の選者も担当、多くの文学少女との恋の懊悩を繰り返しながら、女性思慕を底流に独自の詩、短歌を発表した。生田花世(西崎花世 1888-1970)、水野仙子(服部てい子 1888-1919)、今井邦子(山田邦枝子 1890-1948)、菊池柳子(1892-1922)、若杉鳥子(板倉とり 1892-1937)たちである。
西崎花世は筆名を長曽我部菊子といい、徳島県上板野村の出身で、「女子文壇」の投稿を続け、詩を夜雨に、文を酔茗に学んだ。のち青鞜の同人となり、詩人の生田春月と結婚する。
水野仙子は福島県出身で、雑誌「文章世界」に投稿する。上京し、田山花袋に師事し、自然主義の女流作家として知られたが肺患で早逝した。
今井邦子(画像)は徳島県出身。アララギ派の閨秀歌人として知られた。
菊池柳子は京都下京の寺の生まれで、3歳まで白河大原女の家に里子に出される。「女子文壇」「ハガキ文学」などに盛んに投稿。夜雨に憧れ、毎月のように手紙を書き、やがて夜雨と暮らすが、18歳のとき親の奨めで陸軍少尉と結婚する。
若杉鳥子(左画像)は生後まもなく、茨城県古河町の芸者置屋の養女となるが、12歳のころから「女子文壇」「文章世界」などに投稿を始め、夜雨に師事するようになる。16歳の時上京。小間使いなどの自活の道を探り、女子文壇の投稿仲間の水野仙子、生田花世、今井邦子らと交友を結ぶ。のち「烈日」で認められ、女性プロレタリア作家の草分けとなった。若杉鳥子と横瀬夜雨は終生変わらぬ師弟関係で結ばれた。若杉は44歳で早逝。
投稿雑誌「女子文壇」「文章世界」は、明治末期の地方で暮らす貧しい少女たちにとって、都会への扉であり、閨秀文学とは夢を実現できる少女たちの立身出世の道だった。少女たちは夜雨のもとに集まり、同棲へと進むが、どれもすぐに破局する。大正6年、最後に出会った小森多喜(1898-没年不詳)と結婚し、生涯をともに過ごした。横瀬多喜は明治31年、茨城県那珂郡山方村に生まれた。3女を生む。それまでの閨秀詩人と比べると、多喜だけが一切の打算のない愛だったようにみえる。
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