明智左馬之助の湖水渡り
明智光秀が本能寺に織田信長を襲った時、弟の明智左馬之助光春(1537-1582)は光秀に呼応して安土城を手に入れた。ところが、中国から兵を返した羽柴秀吉は山崎合戦で光秀を討った。秀吉は堀秀政に一隊を授けて安土城を急襲させた。左馬之助は防戦これ努めたが、多勢に無勢、如何とも詮術なく、明智の居城坂本に走ろうとしたが道はすでに防がれていた。ままよと左馬之助は愛馬鹿毛もろともザンブと湖水に乗り入れた。左馬之助その日のいでたちは、雲龍を描いた陣羽織に二の谷の兜をかむり、緋縅の鎧に太刀打ち佩き、大鹿毛の駿馬に跨っていた。水馬は武士の嗜みとはいえ大海のようなこの琵琶湖をどう乗り切るかと敵も味方も懸念したが、左馬之助はみごと対岸に乗り上げ、唐崎の松に駒の手綱をつなぎ、「でかしたぞ鹿毛」と馬を労わり、愛馬を殺すに忍びず、懐紙を出し「左馬之助を乗せて湖水を渡りたる馬」と書いて鬣につけ、首をたたいて別れ去った。この馬は後に賤ヶ岳の戦には20里の悪路を走駆し活躍したという。
明智光春は「明智軍記」において光秀の従弟として伝えられているが、光春の存在は史料的には確認されておらず、光秀の甥の明智秀満(1536-1582)と混交していると考えられる。また左馬之助、左馬助、左馬介、左馬之介など別表記もある。いずれにせよ、元来は三宅弥平次と称し、光秀の娘婿となって、明智姓を名乗るようになったのである。
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