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2015年12月13日 (日)

パレスチナ問題

   同じ土地にユダヤ人とアラブ人が国家を主張していることがパレスチナ問題の根幹である。イスラエルは19世紀末のシオニズム運動で欧州などからユダヤ人が移住を開始したことでつくり始められた。この地はユダヤ人にとって祖先の地であり「約束の地」とされている。一方でここには長らくアラブ人が暮らしていた。

   イスラエル建国には西欧列強、特にイギリスの思惑が深く関与した。第一次世界大戦においてドイツと対立したイギリスは、親ドイツのオスマン帝国支配下のアラブ人たちに独立を約して反乱を起こさせ(フサイン・マクマホン協定1915年)、一方でユダヤ系資本とアメリカの協力を目当てにユダヤ人国家の建設を約束し(バルフォア宣言1917年)、またオスマン帝国の領土をフランスと分割する密約も結んでいた(サイクス・ピコ協定1916年)。結局はアラブ独立の約束は反故にされ、ユダヤ人の入植が本格化。第一次大戦後、イギリスはパレスチナを委任統治下に置き、第二次世界大戦のナチスの迫害でユダヤ人の入植は規模を拡大した。

   第二次大戦で国力が疲弊したイギリスからパレスチナ問題を委ねられた国連は、1947年「ユダヤ国家6対アラブ国家4」のパレスチナ分割案を可決。エルサレムを国際管理地区として翌48年5月14日にイスラエル共和国独立を宣言。ヨルダン、シリア、エジプト、イラクなどアラブ諸国はこれに反発し、翌年5月15日にイスラエルを攻撃(第一次中東戦争)、中東戦争は第4次(1973年)まで続き、イスラエルは漸次領土を拡大、ついにはエルサレムを占領して首都とすることを宣言した(国際的には未承認)。

   一方アラブ側(パレスチナ)は1964年にパレスチナ解放機構(PLO)を組織しゲリラ活動で抵抗、1987年には一般民衆による草の根的抵抗活動「インティファーダ」が起きたが、イスラエルは圧倒的な兵力で押えこんだ。1993年、パレスチナの自治とイスラエルの撤退を内容とするオスロ合意がノルウェーの仲介で成立。翌94年にはアメリカほ挟んで交渉を続けてきたイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が暫定自治合意(カイロ協定)に調印し和平は進展するかに思われた。しかし双方の内部の抵抗は強く、95年にはイスラエル右派活動家がラビン首相を暗殺。その後のネタニヤフ、バラク政権下では和平交渉は停滞した。2001年1月、アメリカ仲介の和平交渉は決裂。同年2月のイスラエル首相選でエルサレムへの強行訪問でパレスチナ側の反発を買ったリクードのシャロン党首が首相となった。シャロンはパレスチナ側にテロの即時停止を求め、報復としての軍事行動を本格化させつつ、不法な入植地の建設を推進し、パレスチナ議長府を包囲するなどの強硬な姿勢を示した。これに対しパレスチナ側からはハマスなどの自爆テロが続発。すると今度は自爆テロを阻止するためとして、イスラエルは6月にパレスチナ自治区とイスラエル入植地を隔てる分離壁に着工し、同時に自治区への侵攻と過激派暗殺作戦を続けた。

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