大奥の御鈴廊下
大奥は、原則として将軍以外の成人男子が入ることは禁止されているため、奥と大奥の境は銅の塀で仕切られ、出入口は二か所設けられていた。「上ノ御錠口」と「下ノ御錠口」であり、前者は大奥の上御鈴廊下、後者は下御廊下につながっていた。この錠口は杉戸で仕切られ、「奥」側では小納戸役中の奥之番がその近くに詰め、「大奥」側では御錠口という役名の女中が近くに詰めて、この杉戸を管理していた。したがって、「表」の長官の老中や「奥」の長官の側衆と、「大奥」の長官にあたる老女(側年寄)が面談する際には、御錠口が杉戸を開けて、奥之番と談合したという。また、将軍が出入りするときにも、女中の御錠口が杉戸を開けたという。
将軍が大奥に出入りするのは、通常、朝の四ツ時(午前10時頃)・昼すぎの八ツ時(午後2時頃)・夜の五ツ時(午後8時頃)の日に3度である。そのうち、朝の四ツ時の「御成(おなり)」は「朝の総触(そうぶれ)」と称し、御台所(正室)はじめ側室・女中一同が御小座敷や上御鈴廊下で御目見をして、将軍の御機嫌を伺った。このときの将軍の服装は「袴」であるが、昼と夜の御成は寛ぎのため「着流し」であったという。また将軍の刀は、小姓から女中の「御伽坊主」が受け取り、御供をしたという。大奥では、この御伽坊主と中臈が将軍身辺の世話をしたのである。
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