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2015年12月11日 (金)

鳥羽伏見戦争の淀藩の裏切り

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  薩軍が幕軍の先鋒を阻止した小枝橋

    慶応3年7月20日、第14代将軍徳川家定が大坂城で没した。御三卿の一橋慶喜が徳川宗家の家督を継いだ。翌年10月14日、慶喜は朝廷に大政奉還の上表を提出した。慶喜は大坂城に退いたが、江戸における薩摩藩の挑発などもあって、翌年正月3日から鳥羽・伏見の戦いが勃発する。京をめざす幕軍は、淀から宇治川北岸堤防上を伏見へ向かう部隊と、鳥羽街道を北進して東寺方面をめざす部隊との二手に分かれて進んだ。幕軍の先頭は小枝橋辺に在った。幕軍と薩軍との戦いは正月3日夕刻から始まった。4日早朝には、おりからの濃い朝霧をついて幕軍はやや反撃の機会を得るが、じりじりと押し返された。5日には、幕軍の主力は淀・八幡まで退いた。敗れた幕軍は、淀城に拠ろうとしたが、淀藩兵は固く城門を閉ざして、幕軍の入城を拒絶した。しかも朝廷軍が追撃してきて、淀の民家を砲火で焼き、さらに淀城にせまると、守兵はつつしんでこれを城中に迎え入れた。このとき藩主・稲葉正邦(1834-1898)は江戸にいた。幕軍にとっては実に意外の出来事であった。この淀城の裏切りは、翌日6日、山崎関門を守る藤堂藩の藤堂采女(1836-1878)が、朝廷軍の味方となり、橋本に拠る幕軍を砲撃したのと並んで、幕軍敗北の要因となった二大裏切りの一つである。家老の藤堂采女の行動は津藩主・藤堂高猷(1813-1895)の命令によるものであった。

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コメント

現在、小枝橋について調査してます。
この画像は何年ごろに撮られたものか、
わかりますでしょうか?

よければ教えていただきたいです。

SKさま。当ブログをご覧いただきましてありがとうございます。この記事は石田孝喜(いしだたかよし,京都市下京区間の町通七条上ル)さんが撮影されたものでおそらく昭和60年前後のものではないでしょうか。詳細は「淀城の裏切り」石田孝喜、「歴史研究」昭和62年4月号(第312号)に記事と写真が掲載されています。「歴史研究」は、新人物往来社が主宰する郷土史研究家たちが投稿する会員制の雑誌です。

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