江戸・明治期の楠公伝説
「太平記」などが伝える楠木正成ほど時代により評価が変わる人物もめずらしいだろう。江戸・明治期、北朝系の皇統が続くなかで楠公伝説が醸成されていったのは如何なる背景があるのだろうか。そもそも徳川家が地盤とした関東一円は中世新田氏の任地であり、徳川家が新田氏の後裔と称したり、南朝に肩入れする考えがあったとしても不思議ではない。また秀忠の娘和子が後水尾天皇に嫁いだことも一因となる。後水尾と和子は南朝の本拠であった大覚寺を復興し、門跡寺院としての格式を高めることに尽力している。そして、水戸学以来南朝が正統であるとする史観が生まれていった。明治44年には天皇自らが南北正閨問題に裁可を下し、以後敗戦まで後醍醐天皇と楠木正成の神格化がすすめられた。すでに明治37には皇居外苑に馬上の楠公像(正成は高村光雲、馬は後藤貞行の作)が建立されていた。
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戦時中(太平洋戦争)、「青葉繁れる桜井の…(大楠公)」を聞いて育った子供たちが、現在、70代半ば〜になっています。
北朝・南朝…というのは、後世の命名であって、時代の流れの中で、融合したりした時期があったのかな、とか、不思議に思ったものです。
投稿: なる | 2011年10月 8日 (土) 20時21分