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2015年12月 5日 (土)

物部守屋の墓

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   572年、物部尾輿の子の守屋が跡を継いで、敏達・用明朝の大連となる。敏達14年、神道擁立派の守屋は、疫病を崇仏派の蘇我稲目・馬子の仏教信仰のためだと主張し、寺塔を焼いた。用明天皇の死後、守屋は穴穂部皇子を擁立したが、推古天皇・馬子に殺害され、守屋は馬子と戦った。587年、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。物部本宗家はこうして滅亡した。物部守屋の墓は大阪府八尾市にあり、渋川廃寺跡がある。

    しかし近年の研究によると、物部氏も、大和国山辺郡(現・天理市)を本拠とする渡来系氏族であたっことから、早くから仏教受容の姿勢をみせていたものと考えられる。蘇我氏と政治的に対立した物部氏は、仏教受容に反対して滅亡した勢力という役割を担わされたのではないかと考えられている。(参考:「物部・蘇我氏と古代王権」黛 弘道著 吉川弘文館)

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