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2015年12月13日 (日)

人間魚雷回天

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Photo    レーダーの発達は、日本潜水艦にとって不利な状況となっていった。昭和18年秋ごろ、黒木博司大尉(1921-1944)と仁科関夫中尉(画像1923-1944)は、戦勢を挽回するため潜水艦、とくに特殊潜航艇は必死必中の特攻あるべしとし、93式魚雷を人間が操縦する回天を考案した。すぐに採用にはならなかったが、昭和19年6月のマリアナ沖海戦、続くマリアナ失陥と、戦局が重大な転機に立ち、海軍首脳部は回天の使用を決定した。人間魚雷「06兵器」を回天と名づけたのは大森仙太郎海軍特攻部長である。戦局も窮地にいたり、天を回らす、戦局を一挙にひっくり返す、の願が込められていた。
    最初の回天攻撃は、昭和19年11月20日ウルシー(カロリン諸島東北端)に対して行われた攻撃である。伊号第47潜水艦(折田善次艦長)から4基(仁科関夫中尉、福田斉中尉、佐藤章少尉、渡辺幸三少尉)、伊号第36潜水艦(寺本巌艦長)から1基が発信して、給油艦ミシシネワ1隻を撃沈。ミシシネワは23000トンの大型タンカーで約70名の戦死者がでた。日本の新兵器に震撼した米海軍は被害の公表を隠蔽したが、未発表戦果があるらしい。伊号47の艦長であった折田善次元少佐は「米空母を撃沈した」と証言している。回天による攻撃は終戦まで続いた。有形の戦果はさほど多くなかったかも知れない。しかし戦の中に散っていった89名とも80名とも言われる若き回天搭乗員のことを忘れない。回天の考案者の黒木博司大尉は昭和19年9月6日、徳山湾にて訓練中殉職した。仁科関夫中尉は黒木大尉の遺骨を胸にウルシー Ulithi に突撃自爆した。回天作戦は何回も繰り返された。その搭乗員89名、訓練中に故障で死んだ者17名、回天の整備兵曹37名(親潜水艦に乗っていた)が10ヵ月の間に戦死した。(参考;前田昌宏「回天菊水隊の四人」)

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