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2015年11月 6日 (金)

義経と尼崎

Photo      尼崎市は弥生時代から人々が住んでいた町で、古代・中世・近世と時代ごとに様々な姿を見せてきた。今年市制100周年を迎え、「尼崎歴史探訪地図」を作製している。原始・古代では上ノ島遺跡、田能遺跡、御園遺跡、水堂古墳、猪名寺廃寺跡。中世では神崎遊女塚、大物主神社、琴浦神社、名月姫の墓、富松城跡、雉が坂など。

    阪神電鉄の大物駅を南に降りると、すぐ大物主神社がある。この神社の近くに身を潜めたとされ、境内には「義経弁慶隠家跡」と「静なごりの橋」の碑がある。

     源義経の正室は頼朝の仲立ちでめとった河越太郎重頼の娘がいる。武門の出身で生粋の坂東女。京好みの義経からは、冷ややかに扱われていた。都にいた義経は側室も多く、平時忠の娘はじめ24人もいた。西国に下ろうと大物浦に向かったとき、時忠の娘のほかに久我殿、唐橋大納言、鳥養中納言などの娘、それに静以下白拍子5人、合計11人の女を連れていた。暴風雨のため一行は四散したとき、時忠の娘以下はそれぞれ京に送り返したが、静だけは義経から離れようとしなかった。義経らは難波、京と戻り、まもなく吉野に潜伏。女人禁制の山の掟に阻まれて、義経と静は別れる。このとき静は義経の子をみごもっていた。そのため囚われて鎌倉へ送られ、鶴岡八幡宮社頭で法楽の舞を強制される。そして月満ちて生まれた男児は由比ガ浜で殺される。静は母の磯ノ禅師と2人で、泣く泣く都へ帰る。義経は静と別れて、奥州の藤原秀衡のもとへ逃げのびてからも、別に妻を迎えて子を生ませている。「吾妻鏡」文治5年閏4月30日の条に、「義経は持仏堂に入り、先づ妻と女児を殺してから自殺した」とある。義経の死を知った静のその後のゆくえはわからない。尼になったとも伝えられる。静はひたすら義経の純愛に殉じた。いまドラマで静に人気があるのは、そのひたむきな情愛のゆえであるといってよい

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