無料ブログはココログ

« 海賊船長ドレーク | トップページ | インドのジャンヌ・ダルク「ラクシュミ―・バーイー」 »

2015年11月14日 (土)

秦の巴蜀経営

Img_0013
    前323年、秦は王号を称し、恵文王元年とする

    現在、東京国立博物館で「始皇帝と大兵馬俑」が開催されている。西安の兵馬俑坑は始皇帝が建造したと考えることが明白なものとされている。本展でも「十年戈(紀元前237年)」作品番号112、「十七年鈹」(紀元前230年)」作品番号107が展示されており、これらの紀年は秦王政の年号としている。しかしこれらの紀年をみると、始皇帝が天下統一した前221年よりも前であり、始皇帝の副葬品とみるにはいささか古い感じがする。

    始皇帝兵馬俑坑が「始皇帝と無関係」とする陳景元の説が朝日新聞の学芸欄で紹介され話題となったことがある。(朝日新聞2008.12.23)陳氏の説はすでに数年前から提起されていたものらしいが、手元の本を数冊しらべてみても、ほとんどの本が兵馬俑が秦の始皇帝の副葬品であることを自明の事実としており、始皇帝との関係の根拠を明らかにしている資料は意外と少ない。わずかに樋口隆康「始皇帝を掘る」(学生社)には兵馬俑の造営年代にふれているので長文になるが引用する。

  出土品の中に紀年を記した銅兵器がある。例えば、相邦呂不韋の戈には3年、4年、5年、7年の銘があり、寺工の戈や鈹には、15年、16年、17年、18年、19年の紀年がある。もっとも遅い19年は前228年で、始皇帝の天下統一より7年前である。したがって、この建造の時期は、始皇帝が天下を統一した前221年から、死ぬまでの前210年の10年間ではなかったかとみられている。二号坑出土の兵馬俑の袖口の外側に「辛卯」という刻字がみつかった。辛卯は前210年で、始皇帝が崩じた年にあたる。その時に焼成されたものとみえる。

    陳景元が出土武器を時代遅れと感じ、恵文王(在位前338-311)の妻の宣太后の副葬品という大胆な仮説をだしている。始皇帝の時代とは、およそ100年から120年の開きがある。つまり「辛卯」も前330年と考えることも可能である。この時代は戦国時代の「合従連衡」の故事で有名な蘇秦・張儀の頃である。

    秦の恵文王の時代に秦が大国となったのは、巴・蜀を併合したことによる。蜀に侵攻した司馬錯の軍は、蜀王をとらえて殺害し、侵略した。勢いにのった秦軍は、さらに東方の巴王国へも進撃し、征服する。こうして巴・蜀の地は秦の領土となり、前311年に東は巴郡、西は蜀郡が置かれた。巴蜀の経営によって秦にもたらされた富は膨大なものであった。とりわけ蜀の地がもつ農業生産力の高さをあげることができる。これらの植民地経営によ.るバブル景気の財政事情を背景として、宣太后の兵馬俑坑の造営が可能になったと陳氏は考えたのであろうか。

 一般に、兵馬俑が始皇帝の副葬品であるという物的証拠は、樋口隆康も挙げている始皇帝時代の宰相「呂不韋○年」と刻んだ戈であるが、兵馬俑坑の地面に数メートルの泥層があるため、後代のものとも考えられなくはない。膨大な文物出土のわりに、文字資料が少ないため絶対年代を特定することが困難であることがわかった。今後も、始皇帝の研究だけでなく、秦代史全体の研究を深化させることが重要ではないだろうか。

« 海賊船長ドレーク | トップページ | インドのジャンヌ・ダルク「ラクシュミ―・バーイー」 »

世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 海賊船長ドレーク | トップページ | インドのジャンヌ・ダルク「ラクシュミ―・バーイー」 »

最近のトラックバック

2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31