ゴッホはどのようにして評価されていったのか
ホフマンスタール
1901年、フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)はパリのラフィット街の画廊で初めてゴッホの作品と出会った衝撃を次のように書いている。
わたしはそれらの力強い、激しい存在の信ずべからざる奇蹟に衝撃をうたれた。樹木、黄色や緑色のいい地面、垣根、石だらけの丘にうがたれた道、錫の水差し、焼物の鉢、テーブル、粗末な椅子のおのおのは新しい生命そのものであった。それらは無生命の恐るべき混沌から、また無存在の深みから出てわたしの方へ向かって立ち上ってくるのであった。わたしは感じた。いやわたしは悟った。これらの被造物は全世界に絶望したかのような恐るべき懐疑から生れたものであり、その存在は虚無の醜悪な裂け目を永遠にうかがっているということを、わたしは、これらすべてを創った人、また恐るべき懐疑の死の痙攣から逃れるためにこの映像によって自らに答えたその人の魂をいたるところに感じた。(1901年5月26日付の手紙、「散文集」所収)
ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、1890年7月27日、ピストル自殺を図り、29日午前1時半死亡した。弟のテドルス・ファン・ゴッホは画商のデュラン・リエルにゴッホの展覧会の開催を願ったが断わられる。このころゴッホの芸術を理解しているゴーギャンもエミール・ベルナール宛の手紙で「世間に馬鹿にされるだろう。時宜を得ていない。多くの人はゴッホの絵を気ちがいざたという。ゴッホのためにもならない」と書いている。
ゴッホが死んでから半年後の1月21日、弟テオも死ぬとテオ未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の世話でアムステルダムでゴッホ展が開催された。1896年、オーギュスト・フェルメーレンはオランダのフローニンゲンでゴッホと作品について講演をした。1896年、ゴーギャンはダニエル・ド・モンフレー宛ての手紙に「ゴッホの作品は値を安くすれば容易に売れる」と書いている。1900年画商のアムブローズ・ヴォラールは医師レーから鶏小屋の穴ふさぎにしていたゴッホの絵を150フランで買った。1901年3月、パリのラフィット街のベルネーム・ジューヌ画廊でゴッホの回顧展が開催される。展覧会場を出ながらブラマンクはマチスに語った。「わたしは親父よりゴッホが好きだ」。同じくフーゴ・フォン・ホフマンスタールは、この未知の画家に異常にほど魅かれた。そして1905年からオランダのアムステルダム国立美術館で大回顧展が開かれてから、ゴッホは評価されるようになっていく。アメリカの小説家アーヴィング・ストーン(1903-1989)はゴッホの芸術と生涯にふかい感動をうけ、「人生への情熱」(1934)を著し、好評を博した。3年後には「ゴッホ伝」を著し、ゴッホの「炎の人」としてのイメージが世界中に定着していく。
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