映画の芸術性とは
アメリカやフランスの科学者によって発明された映画は、はじめは主として自然の再現や演劇の模倣にすぎず、見世物としての大衆娯楽的な興行にすぎず、ほとんどの人が芸術とは認めていなかった。1919年に世に出たロベール・ウィーネ監督の「カリガリ博士」は、表現派映画の最初の、しかも唯一の傑作であった。それは世界の多くの国々にも輸出上映されて、見る者に強い興奮と衝撃を与えた。コンラッド・ラングはその著「映画 その現在と未来」で、映画を「写真」と「運動の再現」の二大要素に分析し、自然的機械的再現にすぎない写真には絵画と違って人間の精神作用の関与する余地がなく、運動を機械的に再現するだけのの映画には動きのイリュージョンを与えることがないことをもって、芸術性がない、と断じた。しかし1920年代に入ると世界の各国でサイレント映画の芸術性が追求された。例えばフランスでは、アベル・ガンスず「鉄路の白薔薇」(1923)をつくり、グリフィスのモンタージュを視覚的なリズムによる心理的なモンタージュに発展させ、カール・ドライヤーは「裁かれるジャンヌ」(1928)で大胆なカメラアングルと、クローズアップを最大限に活用したモンタージュでそれまでの常識を破り、それら映像のもつリズムやテンポが新しい芸術手段として評価されるようになった。イタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュード(1877-1923)は、音楽・舞踏・文学という「時間の芸術」と、建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」の既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した。(「第七芸術宣言」1911年)。 カニュードのいう映画の総合芸術とは、装置の美術性とか、演技の演劇性とかいう意味ではなく、あらゆる芸術の本質的な諸機能を統一したものという意味で、映画は第七芸術という総合芸術だというのである。映画の芸術的な側面を考察する映画芸術学は、ドイツ語の「Kunstwissenschaft」の訳語として始まりすぐに定着したが、イギリス、アメリカ、フランスなどではこれに相当する語は慣用されていない。
1900年になって、イギリスのアルバート・スミス、スチュアート・ブラックストンによって、アメリカで最初の映画会社ヴァイタグラフが創立され、ニューヨークに撮影所が設置された。ベントレイ・キャンベルの戯曲「白い奴隷」が、第1回作品として発表されている。1908年になると活動写真はますます盛んになった。エジソン、バイオグラフ、エッサネイ、カレム、ルビン、ヴァイタグラフ、シーリング、パテー、ジョージ・クライン、メリエスなどの会社がアメリカ全土に配給戦を演じた。
ドイツでは、演劇界の巨人マックス・ラインハルトが、初めて映画を監督、「擲弾兵ローランド」を発表した。スウェーデンでは、スヴェンスカ社が映画制作を開始している。後年、イングリッド・バーグマンを生んだのもこの社である。
無声映画時代は純粋な映像表現が追求され、表現主義や前衛映画運動が起こり、フォトジェニー、モンタージュの理論が実践された。ロベール・ウィーネ監督の「カリガリ博士」(1919年)は表現主義の画家ヴァルター・レーリッヒが装置を担当し、表現派美術を応用して、第一次大戦後の不安定な社会心理が国民にある共感を呼び起こさせた。ウェルネス・クラウス(カリガリ博士)、コンラット・ファイト(眠り男セザレ)、フリードリヒ・フェアー(フランシス)らも好演している。
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