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2015年9月29日 (火)

ジミーとピアとの悲恋物語

Jamesdeanclassicmovies6558615179422    ジェームズ・ディーン(1931-1955)は1950年、父のすすめでカリフォルニア大学の法律科に入ったが、俳優への執着は強く、演劇科へ移った。この時代にエキストラとして「底抜け艦隊」などに出演したが、芽が出ないと知ってニューヨークへ行きアクターズ・スタジオで演技を磨いた。ニューヨークで同棲したリズ・シェリダンと破局後、ポール・ニューマンの紹介で、イタリア女優ピア・アンジェリと出会った。瞬く間に二人は恋に堕ちる。しかし、宗教上の問題や、ジミーの自由奔放な生活スタイルなどに反対したピアの母親は恋する二人を引き離した。1954年にピアは歌手のヴィック・ダモーンと半ば強制的に結婚させられる。ピアの結婚式の当日、教会の向かいの道には、オートバイをとめて沈痛な表情をしたジミーがいたという噂もある。1955年9月30日、ジェームズ・ディーンは愛車ポルシェ・スパイダーを運転中に交通事故で亡くなる。この事故の直後の10月、日本ではジミーの「エデン東」とピアの「銀の盃」とのワーナーシネマスコープがほぼ同時期に公開された。去りし恋人の死の知らせをピアはどんな気持ちで聞いたことだろう。

   ジミーの恋人ピア・アンジェリ(1932-1971)とはどのような女優であったのか。イタリアのサルジニア島生まれの清純派女優。双生児のもう1人マリサ・パヴァンは演技派女優で名作「バラの刺青」がある。ピアは美術学校卒業後、イタリア映画でデビュー。思春期映画「明日では遅すぎる」(1949)で、一躍世界中の若者たちのアイドルとなった。ハリウッドへ渡り、フレッド・ジンネマン監督の「テレサ」(1951)、「赤い唇」(1952)、「三つの恋の物語」(1953)、「君知るや南の国」(1953)、「銀の盃」(1954)、「傷だらけの栄光」(1956)と清楚な美しさで一時は人気があったが、マリリン・モンローなどのようなグラマラスな女優がもてはやされるようになり作品に恵まれず次第に存在感が薄れていく。ダニー・ケイ主演の「僕はついてる」(1958)を最後に、1961年にはヴック・ダモーンと離婚し、欧州へ戻る。イタリアでは映画音楽の大御所アルマンド・トロバヨーリと再婚するが、うまくいかなかった。「ソドムとゴモラ」(1963)、「バンコ・バンコ作戦」(1964)、「バジル大作戦」(1965)、「殺し屋専科」(1965)、「キング・オブ・アフリカ」(1968)、「吸盤男オクトマン」(1971)の撮影後の1971年9月10日、バビルツールの過剰服用で亡くなった。友人に充てた手紙には「愛はもう過去のもの。愛はポルシェの中で死にました」と伝えたという。ピアの選んだ相手のヴィック・ダモーン、アルマンド・トロバヨーリもそれぞれ才能ある人たちだが、ピアが親の反対を押してもジミーの愛を受け入れていれば、ジミーの不慮の死もなかっただろう。そうすると永遠の青春スターのジェームズ・ディーンではなくて、マーロン・ブランドーやポール・ニューマン以上の演技派の老優ジェームズ・ディーンの姿が見れたかもしれない。

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