近代モード・ファッションと女優たち
近代モードのファッションの基礎を形成したデザイナーといえば、オート・クチュールの創始者シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895)、女性をコルセットから解放したポール・ポワレ(1879-1944)、そしてココ・シャネル(1883-1971 )である。
イギリス人のウォルトだが、彼の権力はその時代の大臣もかなわないほどで、このエレガンスの使者は、フランス宮廷を征服してしまった。彼のサロンで日がな一日待って、やっと服をつくっていただくという高貴な女たちが、あとをたたなかった。そのころの舞台の名女優サラ・ベルナールでさえ、ウォルトに舞台衣装の一部をつくってほしいと頭を低くして頼んだものだが、ウォルトは冷たく断わったという。全部を彼自身の手でデザインするならまだしも、たとえサラ・ベルナールという大スターでさえがまんのできることではなかった。誇り高いサラも、二度とウォルトには頼もうとはしなかった。
ポール・ポワレはウォルトの店で働いていたが、1903年、オペラ座近くに自分の店を持った。1906年に、ハイ・ウエストのドレス「ローラ・モンテス」を発表し、女性のウエストを締めつけていたコルセットを追放し、ファッション史上画期的な役割を果たした。女優サラ・ベルナールの衣装デザインを担当し、画家ラウル・デュフィは彼のために布地をデザインした。その後、衣装のデザインにとどまらず、色彩学、装飾一般まで教えたし、香水ロジーヌをつくり出し、一世を風靡した。またアメリカに渡った最初のオート・クチュールでもあった。1920年代になるとポール・ポワレのコルセット無しのドレスが流行したが、誇り高いポワレは、自分の作品がコピーされることを極力きらい、映画に自分の作品を出すことは考えもつかなかった。しかし、メアリー・ピックフォードやそのころ売り出したばかりのジョン・クロフォードのために、デザイン画を描いたという記録が残っている。
それまでの映画は、会社おかかえのデザイナーが存在していて、スターのために衣装をつくった。グロリア・スワンソンはアイナ・モルガン、マレーネ・デートリッヒはトラヴィス・バントンだった。しかし、スターたちの中からも会社のお仕着せでは、あきたらないと思う女優が出てきた。グロリア・スワンソンは一年に一回はパリ、ロンドンに行って、自分の衣装を注文し始めるし、メエ・ウエストは、等身大のボディをつくらせて、イタリア出身のクチュリエのスキャパレリに注文した。こうした風潮の中で、メトロのゴールドウィン・メイヤーは、ココ・シャネルとの協力を考えた。シャネルは特別仕立ての白い列車に乗ってニューヨークからロサンゼルスに向かった。駅にはグレタ・ガルボをはじめ、数多くのスターが待ちかまえていた。ポワレとはちがって、シャネルは折りあえることには寛大だった。最初にシャネルの衣装を着たスターは、グロリア・スワンソンで、映画「今宵こそは」であった。戦後になって、クリスチャン・ディオールが登場すると、ピエール・カルダン、ユベル・ド・ジバンシー、ギ・ラロッシュ、イブ・サン・ローラン、ルイ・フェローらが続々現れた。スターもまた新しくなった。イングリッド・バーグマンは、ディオール、シャネル。ミッシェル・モルガンは、ピエール・バルマン。そして極めつけは、ジバンシーとオードリー・ヘップバーンのコンビであろう。彼女はスクリーンの上でも、オフ・スクリーンでもジバンシー一本槍で、彼女の不思議な魅力をより鮮明に打ち出すことに成功した。(参考:秦早穂子「スクリーン・モードと女優たち」)
追記:秦早穂子の引用するグロリア・スワンソン主演映画「今宵こそは」であるが、同名の映画がフィルモ・グラフィーには見当たらなかった。有名なドイツ映画「今宵こそは」(1931年)はアナトール・リトヴァク監督、主演ヤン・キープラ、マクダ・シュナイダー主演のセミ・ミュージカル・コメディとも言うべき作品で主題歌は日本でも戦前からよく知られているが、グロリア・スワンソンの作品ではない。グロリア・スワンソンの出演作品の中で近い題名は「今宵ひととき」(Tonight or Never)1931年作品、監督マービン・ルロイ、主演メルビン・ダグラスがあり、この映画の中でグロリア・スワンスンがシャネルの衣装で出演しているのではないかと推測する。
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