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2015年8月16日 (日)

「蒲団」のモデル・岡田美知代

Ip120429tan000008000_0001_cobj  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

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   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

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    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

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   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

Photo_2     横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9月)

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