ビアリッツの密約
世界史用語を原語で調べてみると、意訳している用語が数多くある。「カノッサの屈辱」はドイツ語では「Gang nach Canossa」、カノッサの方へ歩く、という意味である。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がイタリアのカノッサへ赴いて謝罪したことを、「屈辱」の語で表現したのである。ビスマルクの「ビアリッツの密約」(1865年)も原語には密約という表現はない。英語ではBiarritz Meetings、フランス語では、entrevue de Biarritz。entrevueとは会見、謁見の意味である。ビアリッツはビスケー湾に面したフランス南西部の保養地。オーストリアとの戦争を計画していたビスマルクは、戦争直前の1865年、ビアリッツでナポレオン3世と会見、ライン左岸地方の割譲をほのめかしてフランスの好意的中立を約束させた。しかしビスマルクは割譲を確約せず、実行もしなかったためフランスの感情は悪化。これはやがて普仏戦争の一因となった。
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