千島占守島の戦い
千島占守島は、千島列島の最北端に位置する、昭和20年ポツダム宣言を受諾した3日後に戦後日本の運命を左右するような戦いがあった。占守島攻防戦である。8月18日、ソ連軍は武装解除の準備をしていた日本側の停戦交渉に応じず、砲撃しながら竹田浜に不法上陸した。池田末男連隊長率いる戦車第11連隊(士魂部隊)は応戦したが、池田大佐、丹生勝文指揮班長、緒方静雄副官以下、各中隊長を含む数百名が戦死した。その後、ソ連と停戦協定が成立するが、もし彼らの善戦がなければ北海道はソ連に占領され、日本は朝鮮のように南北に分断されていたかもしれない。
占守島が日本人に関心を抱くようになったのは、明治天皇の勅を奉じて千島調査をおこなった片岡利和(1836-1908)が嚆矢である。本名・那須盛馬は、土佐藩士・永野源三郎の二男。元治元年8月14日、田中光顕らと脱藩。維新後、片岡利和と名前を変え、新政府に出仕し、明治2年2月には東京府小参事、侍従となり明治天皇からも信頼も厚く、相撲の相手を努めたというそうである。明治24年11月には、天皇の勅を奉じて択捉島を渡って越冬、翌年には占守島に到着している。これが契機となって、岡本監輔(11839-1904)や関熊太郎らが千島議会を設立して、明治25年、帆船「占守丸」で千島開拓を試みている。さらに郡司成忠海軍大尉と退役陸軍中尉白瀬矗らが報効義会を設立し、占守島に上陸している。
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