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2015年8月 4日 (火)

「史記」伝来考

    レファレンス協同データベースに「史記の日本への伝来時期」に関する質問事例がある。山梨県立図書館の回答には、「確かな記録はなく不明。ただし遅くとも6世紀までには日本に伝来していた」とある。図書館の人が諸書を探しても見当たらないのは、専門家でもこれといった資料に乏しく伝来時期を特定することができないからであろう。

    この6世紀に日本に伝来したとする根拠は、聖徳太子の十七条の憲法に史記の字句が引用されているからとしている。しかしながら「日本書紀」の転載された十七条の憲法が604年制定のものであるかは疑義のあるところである。研究者の間では日本書紀の文章に参考にされたとおもわれる漢籍は「史記」も含めて80種以上あるが、これらの漢籍は、必ずしもその全文テキストが伝来したのではなく、「芸文類聚」などの類書よりの間接的引用であることが指摘されている。あるいは十七条の憲法に字句の豊富な漢籍の使用例などから後世の偽作と考える学者も多い。史記の日本伝来を飛鳥時代か奈良時代かでみるかでおよそ100年以上の差がある。つまり「日本書紀」の成立年である720年以前には「史記」は日本に伝来していたことは確実であるが、6世紀とみるのはいかがなものか。もちろん十分に読めなくとも、大和朝廷の時代に舶載品として伝来していた可能性はあるとする。しかし伝来時期を奈良朝と遅くみて、遣唐使などが持ち帰った史記で「日本書紀」編纂の参考としたと考えるほうが自然ではないだろうか。「続日本紀」(768年)の中で史記の亀策列伝の「神亀は天下の宝なり」が引用されている。

    それともう一つ「遅くとも6世紀までには日本に伝来していた」とする説を疑うのは、そのころは今日のように史記は重要視されていた書物ではなかったからである。とくに漢代においては支配階級に不評判であった。その理由は①史記は司馬遷が中書令としての身分で書いたもので、太史令として書いたのではなく、史家版にすぎなかった。②皇帝を批判する言辞がある。後漢の衛衡の漢書旧儀注には「司馬遷は景帝本紀を作ったが、景帝の短所や武帝の過失について言及しているので武帝は怒ってこれを削除させた」とある。史記が評価されるようになったのは唐代に入ってからである。9世紀平安時代には和訓で史記を読んでいたことは想像に難くない。藤原佐世の「日本国見在書目」(891年頃)には「史書80巻」記載されている。BSプレミアム「古代中国よみがえる伝説 司馬遷と武帝」(2004年5月1日放送)においても「史記は平安時代には日本に伝わっていた」としている。山梨県立図書館の「6世紀史記伝来説」はいささか勇み足気味であろう。

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ゆうべBSプレミアムで、「司馬遷・史記誕生秘話」をやっていましたね。

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